詳細1 用明天皇2年(587) 聖徳太子が志能備を使う(甲賀) 信頼度:★☆☆☆☆
【書下し文】時に和吟を志能便(しのび)と名附給ふ。聖徳太子[1]の御事なり(中略)人皇三十一代敏達天皇[2]の頃
細は細入[3]と云人の名也。甲賀郡にて博識広智の楽人故(ゆえ)に好んで軍を能す。
聖徳太子守屋退治の砌(みぎ)り、太子に化たりとも云、陰謀を以て守屋[4]を〈ねやし〉[5]
出す所は甲賀郡馬杉村也。(中略)其後は高野根来の方ヱ行由。今は家跡も知れず。忍の元祖是なり。公家の内也とも云。併し官禄を望む人には之無き由。
(忍術応義伝)
【書き下し文】杉原斎入坊忍術之法授かる事
全郡忍術の元祖を尋るに、当今[6]馬杉村に往昔、杉原斎入と申す遊人有り。
長閑成日退屈の余りに高山の峯にて国の風景を望んと山奥深く入り通て戻る道を失ひ如何せんと差迷(さまよ)ふ処に、忽然と白髪の老人出で来り、
我なんじに授くる物有りと申て、忍術の巻物三巻を相渡し、是を考え知るべし、若(もし)知らざりし時は此の処に来るべし教え遣すと申し、
又習い得るとも私欲色欲の深き若者には必ず教べからず、謀反人有る時は上の御用にも立つ調法(重宝)たるべし、私用に遣えば其身を亡すと言ふ術也、
と申て失にけり。忍びの巻・隠奥の巻・水火の巻と是三巻也。夫(それ)より斎入再度其教候所え通い、習ひ得たる仙術也と聞とも、弥々(いよいよ)斎入習ひ得たるを以て、第一巻軍例の備えの巻、
第五の巻寅の巻は不飢、こごえず(凍えず)と言う巻は斎入心得の巻也と申す。此五巻を以て、忍術奥義の巻と言ふ。
馬杉村太子山の事
(前略)太子勢わづかに百五十騎、守屋は大勢大和国にて此処彼処(ここかしこ)にて戦ひ、官軍利を失ひ敗して守屋の大勢追掛(おいかけ)られ伊賀国より当今馬杉村迄、
逃げ来り給ふ処に杉の立木雑木生茂り、逃るに道無くして如何せんと迷せ給ふ処に、当所住人杉原斎入是を見て、只人(ただびと)ならんと出で来り皇太子の御馬の前に平伏す。
皇太子より問て曰く、汝は如何(いか)成る人ぞと御尋これ有り、斎入答て曰く、私事は当所の住人にてこれ有り候、御君様御難儀を見受、御案内仕らんと馳参り候と申上れば、夫は心妙也、
然らば我等を早く程より隠るる所え案内頼むと仰せ聞かせられ候得共(そうらえども)、斎入直ちに皇太子の乗給ふ馬を杉の木につなぎ置き隠奥の法を以て隠し、
皇太子主従を染打谷と申す隠谷え隠し候処え守屋の大勢追掛来り。守屋、皇太子を見失ひ是より外え行処なし。此生茂りたる立木の中え隠したるに間違い無く、
此立木の茂りの中え矢を射込と大音に呼ばりければ数多の軍勢数多の矢を射込候。最早此中に隠れ居る共、此矢当らぬ事なしとて引帰し何方へ隠れ候歟と湯船山迄退き陣で居休足して帰しける。
(中略)今より斎入に馬杉と家名を下され、是より村名も馬杉村と成る。
(甲賀由緒概史略)
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【注釈】
[1]聖徳太子:厩戸皇子。574-622
[2]人皇三十一代敏達天皇:天皇第三十代敏達天皇のこと。在位572-585
[3]細入:『甲賀由緒概史略』より、杉原斎入のことと分かる。『忍術應義傅』(望月家伝)では細入、
『忍術應義傅之巻』(頓宮家伝)では細人となっているが、細入が正しいと考えられる。解説文参照。
[4]守屋:物部守屋のこと。仏教を取り入れるか否かで争い、厩戸皇子(聖徳太子)らを率いる蘇我馬子に587年の丁未(ていび)の乱で滅ぼされた。
[5]〈ねやし〉:土偏に廷(文意に合わず、意味不明)
[6]当今:現在の
[史]忍術応義伝:江戸中期に成立した甲賀に伝わる忍術伝書。望月家伝と頓宮家伝の2書が有名。
【解説】忍者が初めて使われた例として取り上げられることが多い。一般に細入は「大伴細入(人)」と表される。これは、『伊賀問答忍術賀士誠』に「伴細人」と記述され、
伴氏が姓を「大伴」から「伴」に改称するのは823年以後のことであるから、「大伴細入」とされている。『甲賀由緒概史略』から細入=杉原斎入であることは明らかなので、「大伴」よりも「杉原」と表す方が適切かもしれない。
ちなみに『伊賀問答忍術賀士誠』などでは、大伴氏の祖である道臣命(みちのおみのみこと)を忍術の祖としている。また、遁甲を学んで実践したと『日本書紀』に記述される大友村主は、
甲賀伴氏の遠祖であると伝えられているという。
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詳細2 680年頃 聖武天皇が忍者・多胡弥を用いる(山城) 信頼度:★☆☆☆☆
【原文】問曰吾邦にて此道何れの代より始れる哉(や)
答曰、人皇三十九代の帝天智天皇[1]の御弟の尊をは天武天皇[2]と申奉る、
此御宇[3]に当て清光の親王[4]逆心企て山城国愛宕郡[5]に城郭を構へ篭城しける所に、
時に天武天皇の御方より多胡弥(たこや)と云ふ者を忍ひ入れしかは、多胡弥忍ひ入て城内に放火しけれは、天武天皇外より攻玉ひしに、依て其城忽に落しと也。是吾邦忍術を用るの始めなり。此事日本紀に見へたり。
(萬川集海)(但し片仮名を平仮名に書き改めた)
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【注釈】
[1]人皇三十九代の帝天智天皇:38代天皇の天智天皇(在位668-671)
[2]天武天皇:在位673-686
[3]御宇:天皇が天下を治めている期間。御代
[4]清光の親王:不詳
[5]山城国愛宕郡:現在の京都市北区・左京区
【解説】本文中の「清光親王」は他の文献には見当たらず、史実上存在する人物か疑わしい。「日本紀(=日本書紀)に見えたり」とあるが、日本書紀に、この件についての記述はない。同様の話が『忍秘伝』にあるが、多子孫(たこや)の字を当てている。
忍者研究家の中島篤巳氏は著書『完本
万川集海』で、清光親王は大友皇子であり、これは壬申の乱のことだとしている。ただしこの時点では、天武天皇は即位前であって、天武天皇の御代という表現はおかしい。また大友皇子が城郭を構えて籠城したという史実は、管見の限り無い。一方で大海人皇子(天武天皇)側に伊賀・阿拝郡司が兵を連れて参加したとされており、それに関する伝承が基になっている可能性も考えられる。
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詳細3 藤原千方が四鬼を用いて朝廷に謀反を起こす(伊賀・伊勢) 信頼度:★☆☆☆☆
【原文】又天智天皇[1]の御宇に藤原千方と云者有て、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼と云四の鬼を使へり。金鬼は其身堅固にして、矢を射るに立ず。
風鬼は大風を吹せて、敵城を吹破る。水鬼は洪水を流して、敵を陸地に溺す。隠形鬼は其形を隠して、俄敵を拉。如斯の神変、凡夫の智力を以て可防非ざれば、伊賀・伊勢の両国、是が為に妨られて王化に順ふ者なし。
爰に紀朝雄と云ける者、宣旨を蒙て彼国に下、一首の歌を読て、鬼の中へぞ送ける。草も木も我大君の国なればいづくか鬼の棲なるべき四の鬼此歌を見て、「さては我等悪逆無道の臣に随て、
善政有徳の君を背奉りける事、天罰遁るゝ処無りけり。」とて忽に四方に去て失にければ、千方勢ひを失て軈て朝雄に討れにけり。
(太平記)
【原文】村上天皇[2]の朝とかや(中略)彼が墳墓この地に遺る。尚右の四鬼は伊賀流忍術の初めにしてこれより当国に忍の術武士の間に勃興す。巷説また多し。
(新編伊賀地誌)
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【注釈】
[1]天智天皇:在位668-671。書によっては桓武天皇(在位781-806)になっているという。
[2]村上天皇:在位946-967。
[史]太平記:南北朝時代から室町時代初期までの約50年間を描く軍記物語。資料文は第16巻「日本朝敵事」に拠った。
室町時代初期頃に成立したと考えられている。
[史]新編伊賀地誌:昭和期に成立。藤堂釆女によって江戸時代に編纂された『三国地誌』に中野銀郎が補筆したもの。
【解説】この藤原千方も忍者と考えられることがある(昭和期の忍者本ではよく取り上げられたが、近年ではあまり見られなくなった)。円融天皇(在位969-984)の時代に鎮守府将軍に任命された人物に「藤原千方」という名の人物がいるというが、この千方と同一人物かどうかは不明である。
『新編伊賀地誌』では藤原千方について、伊賀の伝承として触れている。文中の「彼が墳墓」であるが、伊賀市高尾に「千方窟(ちかたのいわや)」と呼ばれる場所があり、伊賀市の指定史跡になっている。
⇒いがぶら「千方窟(ちかたくつ)」
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詳細4 長享元年(1487)9月 「鈎の陣」将軍義尚の陣に甲賀武士団が夜襲(甲賀) 信頼度:★★★☆☆
【原文】世に伊賀甲賀の忍の衆と名高く言は鈎陣に神妙の働共を日本国中大軍眼前に見及し故、其以事名高く誉を得たり。
(淡海温故録)
【原文】長享元年[1]仲秋、江州之国主佐々木氏六角判官政頼[2]
・高頼[3]之父子、背公方義尚公之上意而、為同志望謀叛也、因之、義尚公大怒テ、而同九月七日率諸国士武兵、発向江州、
既相戦及八九之両日、遂不得其勝利而、退帰リ、然所高頼・朝頼[4]等組合甲賀之城主等、同十月朔日之夜忍入於義尚公之陣中、已相戦而有夜討之軍功也、
于時江州之軍勢都合壱万六千七百余騎也、其中ニ甲賀之加勢武兵五拾三人之内、就中廿一騎之武兵者軍功甚振矣、斯以、甲賀居住名武家、各為廿一館者也
延徳元年[5]二月廿日江州鈎(まがり)之合戦有之、是又甲賀之廿一家者、各有夜討戦功也、此時公方義尚公味方敗軍之刻、於鈎之戦場廿六歳負手他界也
(山中文書「甲賀古士之事」)
他、後太平記、実隆公記等諸書等にも記述がある。
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【註釈】
[1]長享元年:西暦1487年
[2]政頼:一説には六角高頼の父とされ、政勝という名であるという。詳細は不明
[3]高頼:?-1520。一般的には父は六角久頼と考えられている。
[4]朝頼:不詳
[5]延徳元年:西暦1489年
[史]淡海温故録:1685年頃に編纂された近江国地誌
【解説】長享元年(1487)9月将軍足利義尚は佐々木六角高頼を征討するため2万5千の兵を率いて近江に攻め入る(第一次六角征伐)。対する六角氏の兵は600で、高頼はすぐに居城の観音寺城を捨て、
甲賀の山中へと逃げる。征討軍は鈎(滋賀県利栗東市)に布陣する。この戦で伊賀・甲賀武士団はゲリラ戦を展開し、参戦した諸大名に恐怖を与えた。そして元来虚弱であった義尚は鈎の陣中で
延徳元年(1489)3月26日に死没する。後に甲賀士が江戸幕府へ仕官活動の際に提出した『甲賀古士之事』などでは、これを夜襲の際に受けた傷が原因であるとしている。
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詳細5 1540年頃 伊賀に忍術の名人11人がいた(伊賀) 信頼度:★★★☆☆
【原文】問曰、十一人の隠忍[1]の上手の名を聞ん
答曰、野村の大炊孫太夫、新堂の小太郎、楯岡の道順、下柘植の木猿小猿、上野の左、山田の八右衛門、神部の小南、音羽の城戸、甲山太郎四郎、
同太郎左衛門[2]、是等拾壱人ならでは無也といへども道順が一流四十八流になる故に当代忍の事を云者伊賀甲賀に忍の流義四十九流有と云り
(萬川集海)(但し片仮名を平仮名に書き改めた)
【原文】
立岡 道順
下柘植 木申・小申
上野 左
神戸 小南
山田 八右衛門
音羽 木戸
甲賀 高山太郎次郎
同処 太郎左衛門
(忍松明目録)
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【注釈】
[1]隠忍:人目を避けて隠れて活動する忍者のこと
[2]野村の…:野村(伊賀市野村)の大炊孫太夫、新堂(伊賀市新堂)の金藤小太郎、楯岡(伊賀市楯岡)の伊賀崎道順、下柘植(伊賀市下柘植)の木猿太郎、小猿八郎、
上野(伊賀市上野丸之内)の高羽左兵衛(左四郎)、山田(伊賀市中島)の瀬登八右衛門、神部(伊賀市上野神戸)の小南(姓不詳)、音羽(伊賀市音羽)の城戸弥兵衛、
甲山(甲賀市信楽町神山)の笹蟹太郎四郎、笹蟹太郎左衛門 のこと
【解説】太郎四郎と太郎左衛門について、『萬川集海』(沢村本)では「江州甲賀甲山笹蟹太郎四郎 同太郎左衛門」とあり、二人の姓はこれによった。また『忍松明目録』(名古屋市蓬左文庫蔵)には
「甲賀高山太郎次郎 同処太郎左衛門」とある。上の注釈では、この2書が二人の住所を甲賀としていることを考え、甲山を「こうやま」と読み甲賀市信楽町神山を意味する説を採用した。
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詳細17 天文10年(1541)11月、伊賀衆が笠置城に忍び込んで放火する(山城) 信頼度:★★★★★
【原文】廿六日[1]、(中略)
一 今朝伊賀衆笠置城[2]忍ひ入て少々坊舎放火、其外所々少屋をやき、三のつきの内一つ居取と云、或は二と云篇々也。
木沢(長政)方の城大将右近かをゐに江州かうか(甲賀)のもの也云々。人数僅七・八十在之云々、弥勒のたけをもちてゐる所に、彼山には一向水無之間、経ず程を可落、
簀川・少柳生偽とうらかへると云々、筒井(順昭)[3]衆少々うしろつめに立了云々、(後略)
廿八日[4]、(中略)
一 於笠置有て合戦、木沢方城より二手に作て打出て、悉く以て打殺、伊賀皆以退散了云々、人数卅人余打死云々、先以安堵了、(後略)
(多聞院日記)
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【注釈】
[1]廿六日:天文10年(1541)11月26日のこと
[2]笠置城:京都府相楽郡笠置町笠置にあった山城。当時木沢長政の持城であったが、長政は翌年(1542年)河内太平寺の合戦で討死している。
[3]筒井:筒井順昭。仁木側。
[4]廿八日:同年同月28日のこと
[史]多聞院日記:奈良興福寺の僧侶・英俊らによって文明10年(1478)から元和3年(1617)まで書き継がれた一連の日記。当時の情勢にまつわる記事は、一級史料として活用されている。
【解説】天文10年(1541)11月18日、細川晴元は将軍・足利義晴に願い出て、伊賀守護の仁木氏に御内書を送り笠置城攻撃を命じた。
命を受けた仁木某は伊賀・甲賀の7,80人の部隊を連れ笠置城を攻撃した。忍び込んで放火し、城の建物の一部の焼き討ちに成功するが、その二日後、木沢方から反撃を喰らい30人余の死者を出した
(一部、Wikipedia「太平寺の戦い」を参照)。
左記文章は、一次史料で信頼性の高い『多聞院日記』の記事で、数少ない戦国時代の忍者の活躍を記した史料といえる。
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詳細18 天文15年(1546) 風間小太郎配下・二曲輪猪助が柏原陣に潜入する(関東) 信頼度:★★☆☆☆
【原文】
亦此の陣[1]中南方[2]より相州の風間(かざま)小太郎
[3]が指南を得たる二曲輪猪助と云忍の骨張を密に柏原へ差越し執合の首尾敵方の配立を巨細に注進なさしめけるが、
月を重て後露顕して扇(力)谷の手の者とも彼か居所へ押寄、とりこにせんとしたりけるを猪介辛ふして逃出、飛か如くに欠(翔)り行を迫手の中より太田大之助といふ歩立の達者のがさしと跡をしたひ、
関東道五六里か程追欠たり。猪助は兼てより物聞の本意たる柔、手柄高名は無用なり。只身命を全ふして事を通するを宗とすへしと氏康の下知を受し身なれば、
如何にもして逃げ延んと逸足をしけれとも命ははや勢ひ疲れて既にくひ留らるへかりしに海辺の側に農家に馬のつなかれて草喰て居たりしを見付、天の与ふるゑものなれとて太刀引抜、
縄切てひらりと打乗、鞭を打て跡をも見す小田原へ馳帰り、余の命を継たりける。比日何者の仕わさにや、扇(カ)谷[4]の陣前に落首を書て立たりける。
駆出され逃るは猪助軍法(卑怯)もの、よくも太田か丈之助かなかかりしかはその歳も暮で天文十五年の春にも移りぬ。
(関八州古戦録)
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【注釈】
[1]此の陣:上杉軍が張っていた柏原(埼玉県狭山市柏原)の陣のこと。上杉軍はここに布陣し、川越城を囲んだ。
[2]南方:小田原のこと(原書註釈より)
[3]風間小太郎:一般に言われる風魔小太郎のこと。ただ関八州古戦録での読みは「かざま」であるので、
「ふうま」という読みや「魔」の漢字の使用は近代の創作の可能性が有る。
[4]扇谷:上杉定朝を頂点とする扇谷上杉軍のこと。
[史]関八州古戦録:享保11年(1726)に成立した軍記物語。軍記物語の中ではフィクション性は低いと考えられている。
【解説】天文15年(1546)ごろ、福島左衛門綱成の守る川越城(埼玉県川越市)を上杉憲政が攻めた(この頃上杉氏と北条氏の間で川越城の争奪戦が勃発していた)。
上杉軍は柏原(埼玉県狭山市)に布陣し、城への補給路を断つ。ここに小田原を出発した北条氏康軍が背後から攻め込むが、この時に布陣の詳細を調べるために派遣した忍者が、
風間小太郎から指導を受けていた二曲輪猪助である。初めに潜入してから数か月後、敵方に見つかり追われるものの、遂には逃げ切ったという。
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詳細31 弘治元年(1555)12月 伊賀衆11人が大和高田城を焼き払う(大和) 信頼度:★★★★★
【原文】
弘治元年(中略)十二月十二日和州田高城[1]伊賀衆十一人シテ居ルヽ処ニ合力[2]ヲソキヨリ入タル者悉打死、
本城ハ悉焼払、堂[3]マデヤクル
(享禄天文之記)
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【注釈】
[1]和州田高城:高田城(奈良県大和高田市旭北町)のことと思われる。城主は高田氏で、大和国内における筒井氏と越智氏の闘争の中で、時機に応じて筒井氏または越智氏に協力していた。
[2]合力:ここでは援軍のこと
[3]堂:高田城の裏手に建立されていた常光寺(奈良県大和高田市旭北町2-52)のお堂のこと
【解説】弘治元年(1555)12月12日、大和高田城を筒井方の伊賀衆11人が攻撃した。援軍が遅く、城内の者は悉く討死し、城だけでなく隣接して建てられていた常光寺のお堂までも焼失した。
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詳細30 永禄3年(1560)3月 木猿率いる伊賀衆が大和・十市城を攻撃(大和) 信頼度:★★★★★
【原文】
永禄三年(中略)同三月十九日夜十市山ノ城[1]ヲ箸尾ソウ次郎[2]殿伊賀衆ヲカタライ
其内木猿[3]ト云物大将シテ居取ル、十市殿ヲハ動六[4]同道シテ豊田ノ城
[5]ニテ欠落アル、上田[6]打死、お上様[7]ハ桃尾
[8]ニテ欠落、当座打死四人有
(享禄天文之記)
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【注釈】
[1]十市山ノ城:十市城(奈良県橿原市十市町)のこと。当時の城主は十市遠勝
[2]箸尾ソウ次郎:当時の箸尾城主の箸尾為綱のことと思われる
[3]木猿:『萬川集海』に忍術の名人として記載される「下柘植の木猿」である可能性が極めて高い(参考:詳細5)
[4]動六:不明。十市遠勝の家臣か
[5]豊田ノ城:奈良県天理市にあった豊田城のこと。城主は豊田氏
[6]上田:十市氏の家臣であった上田氏の1人
[7]お上様:筒井順慶(1549-1584、当時11歳)のこと
[8]桃尾:奈良県天理市滝本町にある桃尾の滝周辺か
【解説】この史料は『萬川集海』で名前の挙げられる木猿が活躍していたことを示す文章として大変興味深い。
史料文によると、永禄3年(1560)3月19日の夜、十市城に木猿率いる伊賀衆が攻入り、十市遠勝は豊田城へと退却した。
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詳細34 永禄3年(1560)5月 今川家臣・岡部元信が服部党30人余を使い刈谷城を攻撃(三河) 信頼度:★★★☆☆
【原文】
廿三日[1]大神君[2]三州岡崎の城に帰り入り給ふ。今川か兵三浦上野介[3]及ひ飯尾の某本丸に在、岡部[4]か一党二の丸を守る。三の丸は大神君の兵是を警衛す。義元[5]命を殞(おと)すの告を聞て、今川か軍士等皆城を棄(す)て駿州に走る。
大神君累世の御家人等群参して御帰国恙(つつが)なきを賀し奉る。
鳴海の城は駿州の部将岡部五郎兵衛尉是を守る。岡部、義元命を殞すの告を聞て、擬議せす城を守る事猶固にして、尾州の多勢と戦て雌雄を決せんと欲す。
信長佐々内蔵助成政をして鳴海の城を囲て攻撃しむ。岡部義を守り命を軽して拒(ふせ)き戦ふ。成政軍に利を失て城陥らす、干時(そのとき)駿州の部将等書翰を鳴海の城に遣し、諸将と共に城を避て駿州に帰るへき事を告るといへとも岡部是を聞かす。信長彼か忠義勇敢を感して、兵を収て和を乞ふ。岡部諾して鳴海の城を信長に避け渡して駿州に帰んと欲す。干時岡部義元か首を信長に請ふ。信長其志を感して是を岡部に与る。岡部大に悦拝謝して駿州に赴く。岡部諸卒に謂て云く、先日より鳴海の城を守て屢(しばしば)敵と戦といへとも遂に大に利を得る事無して駿州に帰り去らん事、勇力尽き且つ計略を失に似たり。敵兵の心を察するに味方敗亡して残党甚く臆すと。勝に乗て驕心満て敵定て枕を
泰山の安きに置き冑の緒を解き弓の弦を弛め怠るへし。其虚を窺ひ不意に起て敵の城を競ひ攻めは何そ其一城を抜かすと云ことのあらん。幸に水野藤九郎信近[6]か守る所の三州苅屋の城は駿州の帰道也。速に兵を発し此城を陥れんと士卒を励し進て苅屋の城を攻撃つ。岡部か察するに違はす信近怠て城中微勢なり。
夜に入、岡部か与力の兵伊賀の忍の士海路を廻て窃(ひそか)に熊村の堀を渉(わた)り、城中に入り火を放て鬨を発す。城兵驚き騒く。信近是を拒くといへとも、寄手の猛勢攻入るの間信近遂に戦死す。信近か玄蕃允[7]城下に在り是を聞て城中に馳入、伊賀の国の住人服部党の忍の士三十余人を撃て信近か首を奪ひ返して岡部か兵を郭外に追ひ出す。信近か兄下野守信元小川の城より兵を発す。苅屋の城を拒き守る。是に依て再ひ岡部城に攻入る事を得す。軍を引て駿州に帰る。今川氏真岡部か忠義武勇を褒め感状を与る。
(家忠日記増補追加)(但し片仮名を平仮名に改めた)
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【注釈】
[1]廿三日:永禄3年(1560)5月23日
[2]大神君:徳川家康(1543~1616)。当時は今川方
[3]三浦上野介:三浦氏俊。今川義元、氏真、武田信玄、北条氏直、徳川家康に仕えた
[4]岡部:岡部元信(?~1581)。岡部五郎兵衛尉。鳴海城を守る。今川義元、氏真、武田信玄、勝頼に仕えた
[5]義元:今川義元(1519~1560)
[6]水野藤九郎信近:刈谷(苅屋)城主。1525-1560
[7]玄蕃允:織田方の武将・佐久間盛政のことか?
[史]家忠日記増補追加:寛文3年(1663)に、松平家忠の孫・忠冬によって編纂された
【解説】今川義元が織田信長に負ける桶狭間の戦いで、今川方の岡部元信は鳴海城を守り、織田方と戦っていた。義元討死の報を聞くも、元信だけは退却せずに戦い続けた。それに感心した信長は、鳴海城開城の交換条件に、討ち取った義元の首級を返した。元信は特に軍功が無かったことを気にして、帰還の途上にある刈谷城を攻め、城主の水野信近を討ち取った。そのとき「伊賀の忍」を海側から廻して、城内に火を付けさせた。水野方の玄蕃允がすぐに駆けつけ、「伊賀の国の住人服部党の忍の士三十余人」を討って、信近の首級を取り返した。
今川家臣の岡部元信が、桶狭間の戦いで服部党の伊賀忍者30人余りを使っていたという。家康の鵜殿退治以前における、伊賀とくに服部家と三河・駿河の繋がりを示唆する内容として興味深い。
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詳細6 永禄4年(1561)3月 六角義賢が百々氏の居城を攻める=伊賀崎道順の活躍(伊賀) 信頼度:★★★★☆
【原文】
問曰道順か一流四十八流に成たる由来如何
答曰佐々木義賢入道抜関斎承禎[1]と云るは近江国の守護たり。其幕下の士に百々[2]と云者有り。
逆意を企て同国澤山の城[3]に楯籠りしを、承禎数日是を攻ると云とも彼城堅固の地なる。依て落城すへき様なかりけれは伊賀の忍ひの名人を
雇い忍ひ入れんと謀て彼の道順[4]を語はれけり。於是道順伊賀の者四十四人甲賀の者四人都合四拾八人召連て承禎の居城森山江赴きけり。
時に伊州に湯船と云里に平泉寺[5]有り。其傍らに宮杉と云陰陽師あり。道順彼れが宿所に立寄て忍の吉凶を占はしめけれは宮杉吉也と占ふ。
其上門出を祝せんとて腰折歌一首詠せり。沢山に百々となる雷(いかづち)もいかさき入れは落にける哉と詠み道順に贈る。道順か名字を伊賀崎と云し故かくしけると也。道順目出たしと喜て
鳥目百疋宮杉に与立けり。其後承禎の御前に行て相図約束を定め少し程経て妖者[6]と云術を以て澤山の城忍ひ入り内より火を放ちけれは承禎外より急に攻入けり。
百々か勢とも火を消んとすれは敵乱入り敵を防んとすれは火愈盛んになり不叫の終に敗北しけると也。其後道順召連行たる四十八人の者とも皆己か一流を立て何流自流と云しに依て道順か一流四十八流に分れたると聞ゑたり。
(萬川集海)(但し片仮名を平仮名に書き改めた)
(参考)【原文】
是月[7]、江州左保(佐和)山城自南取之、百々腹切云々
(厳助往年記)
(参考)【原文】
条々
一、佐和山之儀乗取調儀於調者、為御褒美五万疋被仰付於知行、百々当知行・同佐和山城其儘可被加御扶持并小野浪人被召出儀有之者、其入替於肥田表可被下事
一、別条調略仕済、以其故彼城五日六日間於落居者、可為同前事
一、若於其表尽忠節、於身上討果輩、対子孫為御褒美五百石加増可被仰付事
一、慥調略子細者、御人数事可申上、如望可被相働、但不可成儀不可申上事
一、毒等之調儀、於仕之者、兼日可有御案、無其儀者可為各別事
一、佐和山相果条々、七月已前為先、限其内馳過候者、重而可得御意事、
一、御彼方仁調可仕間、別子細候而、御本意相果族候共、今度■■相究被罷越上者、御忠節者不及是非候、右調儀慥 上之御存次第無相催事、子細此方江於相伝者、縦其間別調而雖為落居、二百石可被仰付、奉公儀不可有別条事
以上
後藤重左衛門尉賢豊
永禄二年五月六日 蒲生下野守定秀
池田宮内丞定輔
(蒲生文武記)
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【注釈】
[1]佐々木義賢入道抜関斎承禎:六角義賢(1521-1598)のこと。南近江の守護・戦国大名で観音寺城城主。
[2]百々:百々盛実のこと。佐和山城城主。六角氏の戦いに勝利したが、後に六角氏の軍に討ち取られる。
[3]澤山城:佐和山城(滋賀県彦根市佐和山)のこと。
[4]道順:伊賀忍者・伊賀崎道順のこと。『萬川集海』では忍術の上手11人の中でも最も忍術が上手かったと書いてある。
[5]平泉寺:三重県伊賀市西湯舟3192
[6]妖者:一般にバケモノと読む。
[7]是月:永禄4年(1561)3月
[史]厳助往年記:室町時代後期の僧侶厳助によって綴られた日記の抄出本。
【解説】永禄2年(1559)、六角氏は浅井長政に離反され、佐和山城も奪われてしまった。そのため、浅井家臣の百々内蔵介のいる佐和山城を攻めて奪回できた者には、褒美と知行を与えることを宣言している(平山優『戦国の忍び』参照)。百々氏が敗亡したのは永禄4年である。その間、2年にわたり攻防戦が続いたのだろう。
『万川集海』には、このとき伊賀崎道順が「妖者の術」を使って活躍したことが書かれており、これが事実ならば、永禄4年のこととなる。『忍秘伝』にも同様の記述があるが、道順は伊賀から40人、甲賀から40人を召し連れたとある(記述の誤りと思われる)。また近年発見された、ある伊賀忍者の子孫の家に伝わる文書には、
このとき伊賀崎道順が連れて行ったのは11人と書かれている。いずれにせよ、忍びの性格を持つ伊賀衆として誇るべき快挙であり、忍術的な作戦を使った好事例だったのだろう。
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詳細19 永禄4年(1561)7月 浅井方が忍びを使い近江・太尾(ふとお)城[1]に放火(近江) 信頼度:★★☆☆☆
【原文】
田那部式部義明[2]、小谷[3]へ馳来て申けるは(中略)太尾は小勢にて相守と見え申侯、それにつき伊賀のしのびの者を頼候處に相たのまれ申すべしに事決定仕候て太尾の城に火をかけ申すべしと契約仕候。火の手あがり申候はゞ、島若狭守、岩脇筑前、神田修理、今井権六[4]等を相かたらひ[5]、太尾へ乗込、暫時に城を乗取申すべしと内談仕候間、今少誰なりとも[6]御加勢仰付けられなば、旧戦の恥辱[7]をすゝがばやとぞ申ける。久政[8]大に悦び、さあらば佐和山[9]に楯籠る磯野丹波守[10]与力の者二百申付くべく候、随分粉骨を抽て太尾を攻取べしと仰せられければ、田那部は小谷より罷帰、件の伊賀のしのびの者を潜に近付、内々頼入事あり。明晩しのび入べきのよし堅契約して近所の侍共にも示合ける時に、永禄三年九月二十六日[11]暮亥の刻ばかりに今井権六、神田修理、島若狭守[12]、田那部式部四人、其勢四百八十、磯野が加勢二百、太尾の城より一里計北西に当て、嶋若狭守が居城井村と云所にて待合それより敵にさとられじと兵共にしのばせ、米原坂、すゝき、亀山といふ所にしのび居る。田那部はしのびの者相具し、手勢二十計にて太尾の城近くしのびあがる。磯野丹波守加勢の者共は亀山南に陣取、今井権六、島若狭守、同じき山の北に陣取、神田、岩脇、田那部の者共は山の峯筋に陣取、合図の火の手を待てぞ居たりけるが、伊賀の者共何としてか、をくれけん。丑の下刻まで火の手をあげざりければ、味方の者共心せきて居けるに、島若狭守、今井に向ひ何条合図相違せり。夜も漸更行かば、敵もしさとりもやせん、しからば重て攻る事成がたかるべし。とかく今井殿は御人数を引かれ御居城箕浦へ御帰有べし。我々も今少相待、一手づゝ引のくべし。是非にと申ければ己が居城間近きによりて、則若狭守が異見[13]にしたがひ、今川の三昧道へしづしづとしのびのきにぞのきにける。かくて田那部式部、合図の時刻もすぎゆけば、事の外せき、しのびの者に向ひ何としたる事なるぞ。今宵は火上る事なるまじきか、若なるまじくばとっく立帰るべし、重て頼むべしと申けるに、しのびの者、只今火の手揚ぐるべしと申に、太尾の本丸より二町計此方番矢倉これ有るを、それに火をかけんとす。田那部、是は本丸より程はるかに隔たり、これにかくるとも味方乗取事は成し難かるべし、城近く火をかけよといふ。忍の者重て申けるは、しのびの作法にて手前に火をかけ、其首尾を以て本丸に火をかけ申筈にて候と申ければ、さあらば汝に任すると申、仍て件の番所に火を放つ(後略)(浅井三代記)
(参考)【原文】 定清みかた討にあひし事
さる程に、今井備中手定清ハ、いかにもして太尾を乗取、本意達せはやと昼夜計策をめくらしけれとも、本丸にハ舎兄、
ニの丸にハ舎弟の吉田究寛の射手弐百人番手にして用心きひしく、中々力責に成へしとも見へさりけれは、せんとする所夜討にしくハあらし、
但、手勢計にてハ叶かたしとて、小谷より加勢を乞、伊賀衆を忍ニ入、城中に火の手をあげ、それを相図として本丸・ニの丸一度に責のほるへしとて、
永禄四年七月朔日、夜に入保坂弓手あてに帰りをふせしに、いか衆忍の手相図の時刻ばつくんにうつりけれハ、嶋若狭守申げるハ、とかくし侯程に夜もやうやう明候へし、
早々引取たまふへし、某御跡に残、加勢の衆をもあげ申へく侯と申げれは、定清残両輩にしつしつと引入たまふ所に、太尾に火の手あかり侍るよし申げれハ、
定清されハこそ小谷の勢にこされて口惜次第也とて、駒引返しもろ鐙をあハセ、保坂の中程にて小谷の勢の中をつつ登はせぬげし処に、くらさハくらし、何ものかあやまりげん、
定清のたた中をたた一錠にっき通しげれば、馬より真倒に落げり、今井か勢ハあぎれはて、やうやう死骸をのぎしかハ、小谷の勢うち入げり、かくて太尾にハ大手に当て火出たりとて、
少々かげ出げれハ、瓦崎の番所すこしもしげるを、やかてうちけし用心せよとて音もせす(後略)
(嶋記録)
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【注釈】
[1]太尾城:太尾山城とも。滋賀県米原市米原にあった山城で城址が残る。六角氏・京極氏・浅井氏によって争奪戦が繰り広げられた。当時六角方の吉田安芸守が城を守っていた。太尾、太尾の城もこれに同じである。
[2]田那部式部義明:田辺式部
[3]小谷:小谷城のことで滋賀県長浜市湖北町にあった浅井方の山城
[4]今井権六:今井定清(?-1561)、箕浦城主、解説文参照
[5]かたらう:上手に言いくるめる。頼み込む。
[6]少誰なりとも:少ない人数で誰でも構わないので
[7]旧戦の恥辱:天文21年(1552)に浅井久政に命じられ今井定清が太尾山城を攻撃したが失敗している。
[8]久政:浅井久政のことであるが、当時の浅井家当主は長政である。解説文参照
[9]佐和山:佐和山城(滋賀県彦根市佐和山)
[10]磯野丹波守:磯野員昌(カズマサ)、佐和山城主
[11]永禄三年九月二十六日:『嶋記録』等によると、これは永禄4年(1561)7月1日のことであり、これが定説である。(~永禄3年10月になっているが、これについても要検証)
[12]島若狭守:嶋四郎左衛門
[13]異見:意見
[史]浅井三代記:江戸中期に成立した軍記物語。創作が多いと言われる。
[史]嶋記録:近江の小領主嶋氏の子孫が著した記録集。一次資料ではないものの、内容の史料的価値は高いとされる。
【解説】永禄4年(1561)7月1日、今井定清は磯野員昌の援軍も得て伊賀忍者を用いた夜襲を決行する。作戦では伊賀忍者が城中に放火し、
それを見て城近くに潜む田辺式部の率いる伊賀忍者も放火し、味方の軍勢が太尾城を攻め落とすというものであった。しかし定刻よりも遅れて放火したため、
自城が近い今井定清は作戦失敗と思い引き揚げ始めていたが、火の手の上がった城を見て焦って闇の中に太尾城へ駆けつけたため、敵味方不明として磯野軍と相討ちしてしまう。
これにより今井定清は討死、さらに太尾城は消火され、より堅固に守られることとなってしまう。
『浅井三代記』ではこのことを永禄3年9月26日と記述しているが、実際は『嶋記録』等によると永禄4年7月1日のことであり、誤っている。これに応じてか、当主も長政ではなく久政(永禄3年10月に隠居し、
長政に家督を譲る)であるかのような記述をしている。
伊賀忍者が「忍びの作法では、まず手前に火を放ってそれから後に本丸に火をかける」と言っているのは興味深い。
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詳細33 永禄5年(1562) 家康が上ノ郷城攻撃で忍びを使う(三河) 信頼度:★★★☆☆
【原文】
長照 今川氏真に仕える、参州宝飯郡西郡城[1]主。永禄5年[2]2月4日、西郡城で討死。法名笠仙
氏廣 三郎・新七郎、石見守。天文17年[3]生。永禄5年三州西郡落城の時、伴与七郎の擒[4]になる。
その後、大神君へ御奉公。天正19年千七百石を知行す。文禄2年[5]石見守。後、御使番、大坂の役に供奉。元和9年[6]
没、76歳、長応寺に葬る、法名日仙
氏信 新七郎・惣右衛門。 母は某氏女、慶長12年[7]7月21日没、法名妙満
(断家譜)
権現様へ甲賀古士共ご奉公申上げ候由来は、権現様未だ三州に御住国の刻、御敵御同国の住人鵜殿藤太郎[8]
御退治の儀を、永禄五年二月戸田三郎四郎殿と牧野傳蔵殿との御両使を以って甲賀二十一家の者共に御頼み成され候に付、早速御請申し上げ、甲賀の者二百人三州へ罷り越し、
同二十六日の夜、鵜殿の城へ夜討に入る。即ち、鵜殿の首を捕り、子供二人を生捕り候て差し上げ、其の外にも名の有る家来二百余人を焼討に仕り、其のついでに土呂張崎の御堂まで踏み落とし候得ば、
斜めならず御感悦成され、御前へ甲賀の者を召し出だされ御盃を下され、自今以後は甲賀廿一家の者共を余所には御覧成され間敷候間、廿一家の者共も、御家の儀粗略に存じ奉り間敷の旨仰せ出でられ、
その以後よりは数度御密通の御用仰せ付けられ候御事
(甲賀古士訴願状)
三河国西郡宇土城夜討の時、正成十六歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。
(寛政重修諸家譜「服部半蔵正成」) |
【注釈】
[1]西郡城:上ノ郷城、宇土城とも。愛知県蒲郡市神ノ郷町城山にかつてあった城で、鵜殿氏の居城。
[2]永禄5年:1562年
[3]天文17年:1548年
[4]擒:とりこ。捕虜
[5]文禄2年:1593年
[6]元和9年:1623年
[7]慶長12年:1607年
[8]鵜殿藤太郎:ここでは鵜殿長照のこと。
[史]断家譜:1809年成立。
【解説】
宇土城は、一般には上ノ郷城と呼ばれる。
永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で信長が今川義元を破ると、今川氏配下だった家康は独立へと舵を切った。このとき今川氏のもとに残った上郷鵜殿氏(鵜殿氏の本流)とは対立関係になる。
それから2年後の永禄5年(1562)、家康は上郷鵜殿氏の居城である上ノ郷城攻撃を開始。思うように攻略できないでいた家康は、2月4日に配下の甲賀者を城中へ忍び込ませて放火させ、遂には落城させたという。この戦いで城主・鵜殿長照は討死。子の氏長、氏次は甲賀者によって生け捕りにされた。
「断家譜」の鵜殿氏の稿には、鵜殿長照が永禄5年2月4日に討死したこと、子息の氏広が伴与七郎(甲賀者)によって捕虜になったことが書かれている。
この戦いは「鵜殿合戦」とも呼ばれ、甲賀者の由緒の1つとして語られることが多い。特に江戸中期、幕府に仕えようとした甲賀古士の訴願状では徳川家必ず取り上げられる話である。
一方で『寛政重修諸家譜』の服部半蔵正成の稿では、服部半蔵が指揮して伊賀者を忍び込ませたことになっている。同書では半蔵16歳のときの出来事だとするが、
享年から計算すると1557年ということになってしまう。服部半蔵が伊賀忍者を率いた話は、創作と見るべきだろう。
とは言え、甲賀・伊賀ともに徳川家に仕えた忍びの由緒として使われていることは興味深い。
さて、甲賀者によって捕虜となった2人の鵜殿の子は、当時今川館に囲われていた家康の正室・築山殿と嫡男・竹千代らとの交換として、
今川方へと戻っていった。しかし後に家康・武田信玄によって今川氏が滅亡すると、今度は旧敵家康の家臣に転向して、鵜殿家を存続させていくことになるのである。
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詳細20 永禄5年(1562) 北条方が葛西城を忍びを使って奪還した(武蔵) 信頼度:★★★★★
【原文】
葛西要害[1]以忍乗取上申付者、為御褒美可被下知行方事、
一ケ所 曲金[2]
二ケ所 両小松川[3]
一ケ所 金町[4]
以上
一、代物五百貫文、同類衆中江可出事、
以上
右、彼地可乗取事、頼被思召候、此上ハ不惜身命、可抽忠節者也、仍状如件、
永禄五年[5]
三月廿二日
本田とのへ
(本田文書・北条氏康の感状)
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【注釈】
[1]葛西要害:葛西城(東京都葛飾区青戸7-28)のこと
[2]曲金:葛飾区高砂周辺
[3]両小松川:江戸川区小松川周辺
[4]金町:葛飾区金町
[5]永禄五年:西暦1562年
【解説】葛西城は下総と武蔵の国境にあり、戦国時代は北条氏の城となる。この史料は太田氏に攻められ奪われた際、本田正勝が奪還に成功したことに対する北条氏康の感状である。
このことにより本田正勝は城番に任命された。
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詳細7 天正7年(1579)12月 第一次天正伊賀の乱
天正伊賀の乱は伊乱記、信長公記を始め、様々な日記、伝書、地誌に記述されている(史料文略)。
【解説】天正6年(1578)、伊賀衆は神戸の丸山城修築に当っていた滝川勝雅(北畠信雄(信長の次男信雄は北畠家の養子となっていた)の家臣)を襲撃し敗走させる。
翌天正7年(1579)9月、信雄は軍勢を率い伊賀に進攻するが、侵入した各地で伊賀衆からの攻撃を受け、信雄軍は敗走、家臣柘植三郎左衛門は討死する始末だった。これを聞いた信長は激怒し、
宿泊していた山崎から信雄宛ての叱りの書状を送っている。
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詳細21 天正8年(1580)8月 伊賀衆が大和国内の城に忍び込む(大和) 信頼度:★★★★★
【原文】
以上、
和州宇智郡坂合部[1]
兵部大夫[2]城江、夜中ニ伊賀衆忍入候処、南より水堀ヲ越、諸口一番乗、於城中無比類働共、諸人之目渡リ、其かくれなき儀、難申尽候事、恐々謹言
金剛峯寺 惣分沙汰所
辰 八月四日
一﨟坊(黒印)
二見密蔵院殿 参
(犬飼家文書)
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【注釈】
[1]和州宇智郡坂合部:現在の奈良県五條市阪合部付近
[2]兵部大夫:信長方の武将
[史]犬飼家文書:旧高野山領内の犬飼家に伝わる文書で、もとは二見氏の文書である。秀吉政権下において、二見氏は在地で帰農することを選択した。
しかしながら江戸中期には完全に没落し、四国へと移住するにあたって、家伝の文書を近所の有力者である桜井家に渡した。後に桜井家から犬飼家へ養子入りがあった際に、
「後日もし別家を立てることがあれば、二見姓を再興するように」との趣旨から二見氏文書を託したという。なお史料文は『高野山文書 第9巻』に拠った。
【解説】2年前に謀反を起こした荒木村重の家臣数名が、天正8年に高野山に逃げ込み、高野山はそれを匿っていた。そうしたこともあり、当時の高野山と織田信長の間はかなり険悪であった。
翌年には信長によって、高野聖数百名が殺害されている。
史料は真言宗金剛峯寺の一﨟坊から二見密蔵院という人物へ宛てた手紙で、天正8年(1580)に比定される。当時二見氏もまた、反信長勢力であった。
伊賀衆は信長方の阪合部の城へ忍び込み、水堀を渡って一番乗りで城へ侵入した。一﨟坊はそのことを「比類ない働き」だったと喜んで報告している。
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詳細22 天正7年(1579)秋 風魔忍者について(小田原) 信頼度:★★☆☆☆
【原文】見しは昔、関東諸国みだれ、弓箭を取てやむ事なし。然ば其比、らつぱと云くせ者おほく有し。
これらの者、盗人にて、又盗人にもあらざる、心かしこくけなげにて、横道(おうどう)なる者共也。或文に乱波と記せり。但正字おぼつかなし。俗にはらつぱといふ。され共此者を国大名衆扶持し給ひぬ。是はいかなる子細ぞといへば、此乱波、我国に有盗人をよ穿鑿(せんさく)し、尋出して首を切、をのれは他国へ忍び入、山賊・海賊・夜討・強盗して物取事が上手也。才智に有て、謀計調略をめぐらす事、凡慮に及ばず。古語に、偽ても賢をまなばんを賢とすといへり。されば智者と盗人の相おなじ事也。舎利弗(しゃりほつ)も知恵をもつてぬすみをよくせられけると、古き文に見えたり。乱波と号す、道の品こそかはれ、武士の智謀計策をめぐらし、他国を切て取も又おなじ。扨又載淵(たいえん)と云者盗人也。陸機と云者舟に乗、長安へ参る時、淵はかりごとをめぐらし、陸機が舟のうちを盗みとらんとす。陸がいはく「汝が器用才覚にては、高位にもすゝむべき人なり。何とて盗みするや」と云時、淵つるぎをなげすて、盗の心をあらためける。帝聞(きこし)めし「志をひるがへす事切也」と、ほうび有て、めしあげて将軍になし給ひぬ。是をおもふに、誠に関東のらつぱが智恵にては、神仏とならんも安かるべし。大人(たいじん)にもならず、財宝をもたくはへず、盗人業をえたるこそ、をろかなれ。然に、北条左京大夫平氏直は、関八州に威をふるひ、隣国皆敵たるによて、たゝかひやん事なし。武田四朗源勝頼・同太郎信勝父子、天正九年[1]の秋、信濃・甲斐・駿河三ヶ国の勢をもよほし、駿河三枚ばし[2]へ打出、黄瀬川[3]の難所をへだて、諸勢は浮嶋が原[4]に陣どる。氏直も関八州の軍兵を卒し、伊豆のはつねが原[5]・三嶋[6]に陣をはる。氏直乱波二百人扶持し給ふ中に、一の悪者有。かれが名を風摩[7]と云。たとへば西天竺九十六人の中、一のくせ者を外道といへるがごとし。此風摩が同類の中、四頭あり。山海の両賊、強竊(ごうせつ)の二盗是なり。山海の両賊は山川に達し、強盗はかたき所を押破て入、竊盗はほそる盗人と名付、忍びが上手。此四盗ら、夜討をもて第一とす。此二百人の徒党、四手に分て、雨の降夜もふらぬ夜も、風の吹よも吹ぬ夜も、黄瀬川の大河を物共せず打渡て、勝頼の陣場へ夜々に忍び入て、人を生捕、つなぎ馬の綱を切、はだせにて乗、かたはらへ夜討して分捕・乱捕し、あまつさへ爰かしこへ火をかけ、四方八方へ味方にまなんで紛れ入て、鬨声(ときのこえ)をあぐれば、惣陣さはぎ動揺し、ものゝぐ(物具)一りやう(領)に二三人取付、わがよ人よと引あひ、あはてふためきはしり出るといへ共、前後にまよひ、味方のむかふを敵ぞとおもひ、討つうたれつ、火をちらし、算を乱して、半死半生にたゝかひ、夜明て首を実検すれば、皆同士軍して、被官が主をうち、子が親の首を取、あまりの面目なさに、髻(もとどり)をきり、さまをかへ、高野の嶺にのぼる人こそおほおかりけれ。扨又其外に、もとゆい切、十人計かたはらにかくれ、こぞり居たりしが「かくても生がひ有べからず。腹を切らん」といふ所に、一人すゝみて云げるは「我々死たり共、主を討親を殺す其むくひを謝せずんば、五逆八逆の罪のがるべからず。二百人の悪盗を、いずれを分て、かたきせんや。風摩は乱波の大将也。命を捨ば、かれを討共安かるべし。今宵も夜討に来るべし。かれらが来る道に待て、ちりぢりに成てにぐる時、其中へ紛れ入、行末は、皆一所に集まるべし。それ風摩は二百人の中に有てかくれなき大男、長(たけ)七尺二寸、手足の筋骨あらあら敷、こゝかしこに村こぶ有て、眼はさかさまにさけ、黒髭にて、口脇両へ広くさけ、きば四つ外へ出たり。かしらは福禄寿に似て、鼻たかし。声を高く出せば、五十町聞え、ひきく(低く)いだせば、からびたるこえにて幽(かすか)なり。見まがふ事はなきぞとよ。其時風摩を見出し、むずとくんでさしちがへ、今生の本望を達し、会稽の恥辱すゝぎ、亡君亡親へ黄泉のうつたい(訴え)にせん」と、かれらが来る首筋に、十人心ざしを一つにして、草にふしてぞ待にける。風摩例の夜討して、散々に成てにぐる時、十人の者共其中へまぎれ入、行末は二百人みな一所に集たり。然ば夜討強盗して帰る時、立すぐり・居すぐり[8]といふ事あり。明松をともし、約束の声を出し、諸人同時にざつと立、颯(さっ)と居る。是は敵まぎれ入たるをえり出さんための諜なり。然に件(くだん)の立すぐり・居すぐりをしける所に、なま才覚なるものいひけるは「いかにや人々、兵野にふせば、とぶ雁つら(列)をみだす、といへる、兵書の言葉を知給はずや。爰の山陰(やまかげ)かしこの野辺に、雁の飛みだるゝをば見給はぬか。風摩が忍び、乱波が草にふしたるよ」とよびめぐれば
「すはや心得たり。
遁(のが)すな討とれ」とて、惣陣騒ぎ動乱しける。馳向て是を見るに、人一人もなし。く(暮)るれば馬にくらをきひかへ(置控え)、弓に矢をはげ、鉄砲に火縄をはさみ、干戈を枕とし、甲冑をしとねとし、秋三月長夜をあかしかね「うらめしの風摩が忍びや。あらつらの、らつぱが夜討や」いひし事、天正十八寅の年まで有つるが、今は国おさまり目出度御代なれば、風摩がうはさ、乱波が名さへ、関東にうせはてたり。
(北条五代記)
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【注釈】
[1]天正九年:この戦は「黄瀬川の戦い」と考えられており、これは天正7年(1579)のことで、『北条五代記』は2年誤っている。
[2]三枚ばし:静岡県沼津市三枚橋
[3]黄瀬川:静岡県東部を南流し、狩野川と合流する
[4]浮嶋が原:静岡県沼津市原付近
[5]はつねがはら:静岡県三島市谷田初音ヶ原
[6]三嶋:静岡県三島市大社町付近か
[7]風摩:いわゆる風魔小太郎のこと
[8]立すぐり・居すぐり:原文中にあるように、何らかの合図によって一斉に立ったり座ったりすることで曲者を見つける方法
[史]北条五代記:江戸時代初期に三浦浄心によって著された『慶長見聞集』から後北条氏にまつわる話を抄録した軍記物語。
【解説】風魔小太郎の根拠として持ち出される史料の全文を掲載した。一般に忍術の一つとして認知され、『万川集海』にも書かれる「居すぐり立すぐり」の様子が描かれている。
史料文によると、北条氏直と武田勝頼が黄瀬川を挟んで対峙したいわゆる黄瀬川の戦いの時に、武田の陣営を攪乱して帰る北条の忍び衆(いわゆる風魔忍者)の中に武田の曲者が潜入したところ、
北条方は「立すぐり居すぐり」という方法を用いて曲者を発見、討ち取ったという。
ところで、一般に風魔小太郎として知られる人物は『北条五代記』には「風摩(かざま)」として登場し、「乱波の大将」とされる。「風間小太郎配下・二曲輪猪助が柏原陣に潜入する」の項目も参照して頂きたいが、
史料文では風魔は風摩とされ、魔の字は後の創作である可能性が高い。
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詳細8 天正9年(1581)9月 第二次天正伊賀の乱
天正伊賀の乱は伊乱記、信長公記を始め、様々な日記、伝書、地誌に記述されている(史料文略)。
【解説】第一次天正伊賀の乱から2年後の天正9年(1581)9月、織田信長自身が軍を率い伊賀に進攻する。『多聞院日記』には一万余騎とあり、『伊乱記』では四万余騎となっている。
これには甲賀衆も信長陣営で参加し、また伊賀国内からも裏切り者が出た。信長軍は伊賀で虐殺放火破壊の限りを尽くし、伊賀衆は次第に最後の砦・柏原城に集まる。
『伊乱記』によると10月25日に奈良の大倉五郎次郎という者が柏原城に来て、和睦の仲介をし、28日に和睦が成立して開城となった、とある。
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詳細9 天正10年(1582)6月 神君伊賀越え(伊賀) 信頼度:★★★★☆
【原文】天正十年壬午[1]五月、信長公仰に依て、甲州之穴山梅雪、和泉之堺為御見物、権現様被為成御同道候、其刻明智日向守企逆心、
京都本能寺にて、六月朔月、信長公御生害之由、堺にて被及聞召、御相談之上、本道は如何と被為成御意、伊賀路山越を御心掛、大和迄御同道被成候處、則大和之内ニ而一揆蜂起、
梅雪被討取申候ニ付、権現様、同二日、伊賀路江御入被成候故、伊賀者共罷出、かふと山御案内仕、伊勢白子迄致御供、夫より御舟二被召、身を以、同十五日、尾州鳴海御家江被召出、
御切米並侍扶持と被成御意、三人扶持つゝ被下之候、(以下略)
御陣御供書
先祖之者共伊賀ニ居住仕候處、権現様伊賀路山越被為遊候、並御陣御供仕候覚、
一 織田信長御手入之節、上服部勘六[2]、仲服部仲[3]、下服部半蔵[4] 申者、伊賀路山越御案内仕、参州江引取罷在候之処、信長於伊賀被為御札立、帰国望之輩者、無子細被仰出候ニ付、
仲、半蔵、勘六伊賀江罷帰候事、
一 天正十年壬午六月、権現様、穴山梅雪御同道被遊、泉州堺江御立越被遊候節、明智日向守企逆心、信長於本能寺御生害之旨西御門跡並茶屋四郎申上候、
夫より権現様大和路江被為成候、梅雪は御跡ニ而、為一揆被討被申候之由、夫より権現様伊賀江御入被遊、仲は広木と申處、半蔵は栗と申所、勘六は喰代と申所ニ罷在候を被召出、
仲、半蔵、勘六山道為御案内、伊賀之者罷出、各一所ニ薬師寺と申所江御案内申上、追々伊勢白子迄御供申上候、当分為御褒美、銀子三貫目被下置、仲、半蔵、勘六請取之、
右之者共不残拝借仕候、夫より御船ニ而参州江御入被遊候、無残所御忠節 被遊御意、同壬午年、於尾張鳴海被召出候事、(以下略)
(伊賀者由緒並御陣御供書付)
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【注釈】
[1]天正十年壬午:1582年
[2]服部勘六:伊賀の服部一族のうち上服部とされるが、詳細不明。
[3]服部仲:服部仲保次(1526-1587)。『寛永諸家系図伝』によれば、永禄8年に初めて徳川家康(当時は松平元康)に仕え、伊賀越えに随行したとされる。後に家康配下の伊賀者一部を預かった。
[4]服部半蔵:服部半蔵正成(1542-1596)。『寛政重修諸家譜』などで伊賀越えに参加したとされるが不明。なお左の文書では、まるで伊賀出身且つ在住のように書かれているが、服部正成は三河生まれ(ただし本国は伊賀)。永禄12年(1569)には家康に仕えているようなので、当時も三河に住んでいたと考えるのが妥当だろう。服部仲と同様、後に伊賀者二百名を預かった。
※信頼度星4つとしているが、左に掲げた文書の評価とは異なる。
【解説】本能寺の変の際、徳川家康は少ない供回りと共に堺にいた。信長に謁見するべく、堺を発って京都へ向かっていると、そこに商人・茶屋四朗次郎が信長自刃の報を告げに急ぎ来る。
家康は重臣の勧めもあって三河に戻ることを決意。山城→近江→伊賀→伊勢と経由し、伊勢湾を船で渡って三河の岡崎城へ無事帰還した。ただ、当初同道していたが途中から家康一行と離れていた穴山梅雪一行だけは、土民(山賊とも)に殺されとされ、京田辺市飯岡の共同墓地に葬られている。
『伊賀者由緒書』などによれば、このとき山賊のひしめく伊賀山中を案内したのが伊賀者であり、彼らは家康の家臣・服部半蔵正成のつてで参集したという。しかし、先代から伊賀を離れていた服部正成に、
伊賀者を招集できるほどの力があったか甚だ疑問である。この点について『徳川実紀』は、「去年信長伊賀国を攻られし時、地士どもは皆殺さるべくと令せられしにより、伊賀人多く三遠(三河と遠江)の御領に逃来りしを、
君あつくめぐませ給ひしかば、こたび其親族ども御恩にむくひ奉らんとて」とあり、天正伊賀の乱の際に亡命した伊賀者を家康が庇護し、御恩に報いるべくその縁者が参集したという。
伊賀越えについては、実際の経路や警護に当たった人物について大変多くの説があり、未だに定まっていない。混乱のさなかに行われたこともあってか、江戸初期にはすでに諸説存在していた。由緒書では大和路という表記も多く見られる。伊賀の上野盆地ではなく、甲賀を経由して柘植に入った説も有力である。また道案内においては、人質を出させて案内させていたことが見え、道案内や警固は、少ない人数の中で行われた可能性も高い(忍びの館の忍者コラム「神君伊賀(甲賀)越え⑥ 考察」参照)。
いずれにせよ、家康がこの受難を「これを伊賀越えとて、御生涯御艱難の第一とす」(『徳川実紀』)としたとされ、
家康を一泊させた多羅尾氏は後に世襲代官となり、警備として参加したかもしれない伊賀者たちは徳川家に召し抱えられることになるのである。
以下のサイトで伊賀越えが詳細に解説されているので、参考としてリンクを掲載する。
⇒「戦国浪漫」神君伊賀越え考
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詳細29 天正10年(1582)7月 前田利家が偸組を使う(能登) 信頼度:★★★☆☆
【原文】能州石動山軍、付石動山焼失事
能州石動山[1]へは、前田又左衛門尉利家[2]軍兵を引率し、
天正十年六月廿六日[3]の未明に押寄たり(中略)前田利家ハ
伊賀ノ偸組トテ五十余人扶持シ置シカ、彼輩ヲ招テ、今敵軍スル体ヲ見ルニ、物ノ用ニモ可立程ノ者ハ、打出テ合戦スルト覚エタレバ、坊々院々ニ墓々シキ人ハ有マジキゾ、
汝等忍入テ、院々坊々ニ火ヲ放テ焼立、少々老法師、小法師原中ニ敵対スル者ヲバ斬テモ捨ヨ、去程ナラバ一人モ不残逃失ナン、衆徒等坊中ノ火ヲ見バ、敵早攻入タルバトテ途ヲ失ヒ、
敗軍スルコト疑ナシト下知シケレバ、畏候トテ、院々坊々ヘ忍入テ窺ヒミルニ、案ノ如ク手ニ可立人ハナシ、小法師原ノ少々残タルヲ退散シ、十余ケ所ニ火ヲ掛タリ、(後略)
(荒山合戦記)
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【注釈】
[1]能州石動山:石川県能登町近辺にかけて位置する山。標高565m
[2]前田利家:1538?-1599。家督は1569-。天正10年当時、利家は能登国主だった
[3]天正十年六月廿六日:天正10年は西暦1582年である。6月26日となっているが、実際は7月26日であった(笠間権兵衛書上写に拠る)
[史]荒山合戦記:前田利家が石動山衆徒(一揆勢)を平定した荒山合戦および石動山合戦の戦記
【解説】1582年7月石動山合戦において、前田利家は上杉方の能登畠山氏旧臣と石動山衆徒が立て籠もる石動山の焼き討ちを行い、全360坊を焼き払った。この時『荒山合戦記』では、
偸組という名の忍者を使って放火させたとしている。
同書によれば、前田利家は「偸組」と名付けた忍びを50人余雇用していた。偸組に冠する「伊賀の」という表現は、「忍び」と捉えるべきか「伊賀出身」と捉えるべきか、判然としない。
『加能郷土辞彙』の「四井主馬(よつゐしゅめ)」の項には「慶長五年八月三日大聖寺城の陥落した時、前田利家は直に四井主馬を城中に入れて放火せしめたとある。主馬は忍びの者であったのである。」とあるが、
根拠が不明。四井主馬は『加賀藩初期の侍帳』に「御馬廻組」として載っているという。(参考:レファレンス協同サービス「加賀藩偸組について地元に残る史料が知りたい」)
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詳細23 天正12,3年(1584,5) 伊達政宗が黒脛巾組を創設する(東北) 信頼度:★★☆☆☆
【原文】政宗公兼て慮りあって、信夫郡鳥屋の[1]城主安部対馬重定[2]に命じて、
偸になれたる者五十人をえらみ、扶持を与へ、これを黒脛巾組と号す。柳原戸兵衛・世瀬蔵人と云ふ者を首長とし、安部対馬之を差引、所々方々へ分置き、
或いは商人・山伏・行者等に身をまぎれて、連々入魂の者も出来れば、其の便宜を以て密事をも聞出し、其の時々これを密通す。之に依りて政宗には疾く此の事を聞かれけれども外に知る人なし。
仍て二本松攻[3]已前より、境目の城々には人数の手当あって、(以下詳細24に続く)
(伊達秘鑑)
貞山[4]様御代に、黒脛巾組[5]と申す者召し仕えられ候。
是れは其の所々の百姓共の内、力量もこれ有り、打物も覚え候様の者をすぐり立、五十人・三十人一組に致し侯て、所々の御案内申し上ぐる。
又は悪党共忍び入り候を捜し出し候か。或は兵糎廻米御陣具竹木等の事共、差配申し候今時の組抜の様なる者に候。一統に黒の皮脚絆をはき申候。
其土地の古人の武辺これ有る者を組頭と相定められ候。南にては阿部封馬。北にては清水澤杢兵衛。佐沼[6]には逸物惣右衛門。
石巻[7]には佐々木左近。本吉[8]南方に横山隼人。同北方より気仙[9]迄は、
気仙沼左近。其の外名前承り伝わらず候。
(老人伝聞記)
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【注釈】
[1]信夫郡鳥屋の:福島県福島市鳥谷野
[2]安部対馬重定:安部対馬守安定の誤りと考えられている
[3]二本松攻:人取橋の戦い(天正13年=1585)のこと。詳細は詳細24に譲る。
[4]貞山:伊達政宗(1567~1636)
[5]黒脛巾組:くろはばきぐみ と読む。仙台伊達家が使ったとされる忍者集団。存在の真偽は不明である
[6]佐沼:宮城県登米市迫町佐沼
[7]石巻:宮城県石巻市
[8]本吉:宮城県本吉郡
[9]気仙:宮城県気仙沼市
【解説】左に掲げた2つの文章が黒脛巾組の根拠となる資料文である(黒脛巾組の働きについては詳細24を参照)。
『伊達秘鑑』によると、伊達政宗は鳥谷野の安部安定に命じ、忍びの素質のある者50人を選んで黒脛巾組とした。『老人伝聞記』は、
彼らは百姓の内から選ばれた、力があって武器の使える者たちだったとしている。
安部安定の配下である阿部柳原戸兵衛・世瀬蔵人の2人が、黒脛巾組の頭を務めた。天正13年(1585)には、すでに黒脛巾組がいたらしいので、
その創設は政宗が家督を相続した1584年~翌1585年の間のことだということになる。彼らは皆黒い脚絆を装着していたことが、その名前の由来になったとされる。
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詳細24 天正13年(1585)11月 黒脛巾組のはたらき① 人取橋の戦い(東北) 信頼度:★★☆☆☆
【原文】(詳細23上段より)また時に十一月十日[1]、安積郡の内郡山にこめ置かれたる。
大町宮内・太宰金七方より、早馬を以て注進しけるは、佐竹[2]・会津[3]・須賀川[4]
・岩城[5]・石川[6]・白河[7]の六将軍。約を定め二本松後詰と稱し。実は大軍を以て一戦に当家
[8]を亡さんと、佐竹・岩城の両軍は一万余の軍卒をひきいて三春口[9]より打こへ。会津義広[10]には
一万余の人数にて、中山口[11]より進発せらる。白河・石川の両将は数千の兵卒を引て須賀川表より出張し、須賀川に群会し、安積郡当手幕下の小城どもをかすめとり、
昨九月中村城[12]も責落さる。近日高倉[13]・本宮[14]表へ発向せらるゝの由、
其唱ひ隠れこれ無きの旨注進す。(中略)
仰此度の一戦[15]は、伊達を打果すべき結構[16]にて、
七大将評議あって三万に及ぶ軍勢を卒し、各出張ありける処に安積[17]の一戦にかけ負、早速退散せられしこと。
後に聞へけるは、色々軍議出来しけるゆへとぞ聞べし。石川白河の人は、伊達へ親族なれば内通ありと云唱へ、又会津の者共伊達へ傾き、境目の諸将逆心して伊達の人数を引入ると云出し。
又白河石川の陣中にては、会津・佐竹疑心おこり、此陣中へ押しよするなどと誰云うともなく私語を立て、陣中静かならず。これは政宗の謀略を以て、今度の軍一大事なれば、
彼の黒脛巾の忍びをして、信夫鳥屋の城主安部対馬に密々に謀を授けられ、柳原戸兵衛・世瀬蔵人等手下をまはし、様々の流言を云触らし、反間を行ふゆへ、三軍の疑ひをおこし、暫時の退散を遂げしむなり。
(伊達秘鑑)
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【注釈】
[1]十一月十日:天正13年(1585)11月10日。
[2]佐竹:時の宗主は佐竹義重。茨城県水戸市などを根拠地とした。
[3]会津:蘆名氏のこと。福島県会津若松市付近を根拠地とした。
[4]須賀川(すかがわ):二階堂氏のこと。福島県須賀川市付近を根拠地とした。
[5]岩城(いわき):時の宗主は岩城常隆。
[6]石川:陸奥石川氏。福島県石川郡付近を根拠地とした。時の宗主は石川昭光。昭光は伊達晴宗の実子で石川家に養子入りしており、政宗からすると実の叔父にあたる。
[7]白河:福島県白河市付近を根拠地とした。時の宗主は白河義広(2年後蘆名家の家督を継ぎ蘆名に改姓)。義広は佐竹義重の実子で母は伊達晴宗の娘。政宗からすると実の再従兄弟(またいとこ)にあたる。
[8]当家:伊達家
[9]三春:福島県田村郡三春町方面。
[10]会津義広:上述の通り義広はこの時点では白河家当主であり、『伊達秘鑑』の誤りと思われる。
[11]中山:福島県須賀川市中山方面。
[12]中村城:福島県相馬市中村にあった平城。
[13]高倉:福島県いわき市高倉
[14]本宮:福島県本宮市
[15]此度の一戦:人取橋の戦い(天正13(1585)年)のこと。佐竹氏をはじめとする連合軍と伊達政宗が戦った。政宗は前年の天正12(15851)に家督を継いでいる。
[16]結構:計画
[17]安積:福島県郡山市
【解説】天正13年(1585)、人取橋の戦いのことである。佐竹氏をはじめとする連合軍が大軍を以て伊達軍を攻めた。
佐竹軍は非常に優位であったが伊達壊滅の寸前で撤退する。これに関して『伊達秘鑑』では黒脛巾組の忍びの働きがあったとしている。
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詳細25 天正16年(1588) 黒脛巾組のはたらき② 郡山合戦(東北) 信頼度:★★★☆☆
【原文】其夜寄手にも軍評定あって、大将義重[1]の曰、「昨今味方の先手軍利なし。
明日は須賀川[2]の軍兵先陣たるべし」とありければ、須賀川の軍将河井甲斐[3]、
委細承知仕る所なり。併ながら二陣は岩城[4]の軍兵を仰せ付らるべし。若し二陣会津[5]の勢に候はば、
心腹に落申さざること候へば。須賀川軍勢先陣は罷成間敷く候と、辞退に及ぶ。義重問玉ひ、夫は難題がましき訴なり。畢竟は身退んとするに似たり。盛行より加勢の為、差こされたる上は、粉骨の奉公何れ甲乙あらんや。
此上に別して訴訟あるべからず。是非須賀川先陣会津勢二陣たるべしと。堅く軍法定めらる。須賀川勢心に落ぬことなれども、身を退くとの一言に恥て、先陣にぞ定りける。かかる処に須賀川の軍将河井甲斐、
佐竹の長臣車中務重頼[6]、陣へ来り云けるは、明日の御合戦は、先づ控られ然るべし。其仔細は伊達成実[7]陣場城の如くに拵へ。
其上南は窪田[8]筋青田皆水を引掛、ひとへに沼の如し。此所にて御働きあらば、久保田[9]・郡山[10]よりも出合、
三方より支へなば、伊達無勢なりとも、由々しき大事たるべし。先づ郡山の城を取詰責落し、道を広くして会津は山王林[11]へ取掛り、当陣は久保田へ押し掛なば、
伊達勢二つに割れて、さざへ戦んに元より無勢なれば、救ひ合こと叶はず、本陣より救ひを分んとするか。左なくとも政宗自ら出戦必定なり。其時須賀川岩城勢、一致に成て伊達の本陣へ取掛、勝敗を一戦に決し候はば、
図(はかり)に中り申すべくと云ければ、中務右の趣演達[12]す。義重其計略尤然るべしとて、廿日の合戦は止られける。 此評定兼て敵陣へ紛入らせる伊達の黒脛巾組、
忍び者ども聞出して、其夜の内に久保田の本陣へ告たりける。
(伊達秘鑑)
【原文】
一、有時の御咄にハ、一年仙道へ働き、敵ハ七屋館四方よりとりつめられ、籠の内の鳥のことし。何方へも逃れかたく、安積山に陣とる。
佐竹義信[13]ハ窪田[14]に陣とり、数日の対陣、日々方々の敵へ競り合、あまつさへあなたこなた押さへに人数ハ少なし。(中略)
其後小雨の降る日、小屋の内徒然なるまゝに人々に隠れ、侍にハ片倉小十郎[15]・松川与介両人黒脛巾の者二三人、笹蓑に菅笠着て里人の真似をして、馬ハ窪田の山先の陰に隠し置候て、義信の陣小屋をまわりよくみて、日ハ七ツ頭の事なれハ、搦手脇の水汲口の木戸を開け、雑人とも入れ違ひ川水を小屋小屋へ汲み入候間、それに紛れ内へ小十郎松川計召しつれ入候て、小屋小屋見まわり、義信のいられたる小屋をみれは、諸侍たくさんに詰め、何哉ん細工する音なと聞こゆ。左の角より三四間目にて、馬をとり放し候て、中間若党駆けいて馬をおつて行。其前を通り候へハ、主人の十文字を小屋の軒にたてかけ人ハなし。我まゝに我等取候て、もとより土産取たるといへは、小十郎松川も小屋の内をさし覗きみて、松川ハ吊るしてかけたる鍋をひつさけ、小十郎ハ鐙をかたかた手に持ち来り、いつれも土産短くして身の方を、藁のありけるにて藁苞にこしらへ担(かた)け、元の水汲口より子細なく出ぬけ、二町程くる所に小屋より火事出て燃へあくる。松川されはこそといふ、何事そと問へハ、鍋をはつし申候時、燃止(もえさし)の御座候を二ツとり、一ツハ垣に挟み、一ツは馬屋の糠俵の見へ申候後ろへ投たるといふ。仮初にも恵方の智に付て才ハまわる物かなと語りなから帰り、約束の所にいたる馬に乗りあとをみれは、小雨ハ降れともよほとの風吹候故、小屋共よほと焼け、本陣やうやう助けたるとなり。後に聞けハ馬をとり放し火出したるとて、栗原隠岐といふおほへありて関東にてもかたのことく人の知りたるものなり、法度のため小屋を払ハれ浪人したる由聞こゆとの給ふ。
(木村宇右衛門覚書)(ただし一部平仮名を漢字に改めた)
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【注釈】
[1]義重:佐竹義重(1547~1612)のこと
[2]須賀川(すかがわ):二階堂氏のこと
[3]河井甲斐:河井甲斐守のこと
[4]岩城(いわき):時の宗主は岩城常隆。
[5]会津:蘆名氏のこと。宗主の蘆名義広は佐竹義重の実子。
[6]中務重頼:不詳
[7]伊達成実:伊達政宗の重臣。1568~1646。
[8]窪田:福島県郡山市富久山町久保田付近か
[9]久保田:窪田城のこと。所在地は上記窪田と思われる。
[10]郡山:郡山城のこと。福島県郡山市にあった。
[11]山王林:政宗が布陣した福島県郡山市富久山町久保田山王館のことと思われる。福島県郡山市冨田町山王林と誤ったか。
[12]演達:主君の言葉や気持を取り次ぎの者が伝えること
[13]佐竹義信:佐竹義宣。伊達政宗の従兄弟にあたるが、伊達家とは対立していた。佐竹義重の嫡男。後に秋田藩初代藩主。1570-1633
[14]窪田:福島県郡山市富久山町久保田にあった。
[15]片倉小十郎:片倉景綱。伊達政宗の側近。1557-1615。
[史]木村宇右衛門覚書:晩年の伊達政宗(1567-1636)の小姓を、9歳のときから務めたという木村宇右衛門が、その記憶力をもって後年記した。政宗の十七回忌のことが記されており、その慶安5年(1652)頃の成立と考えられている。
【解説】天正16年(1588)の郡山合戦(窪田合戦とも)のとき、郡山城・窪田城などの伊達方を蘆名・相馬・佐竹・大内氏らが攻めた。大内氏は政宗側に寝返り、
結果攻め手を撃退して伊達方の勝利となる。『伊達秘鑑』には、政宗が予め敵陣に忍びを潜入させ、敵の会議を味方に報告させていたと書かれている
これまで黒脛巾組に関しては、幕末に書かれた『伊達秘鑑』『老人伝聞記』に拠ることが多く、実在が否定されることもしばしばあった。しかし2019年、政宗が直接話した記録とされる、晩年の政宗の小姓を勤めた木村宇右衛門の覚書(江戸前期成立)に、「黒脛巾」とあることが指摘された(千葉真弓『あやしい政宗伝説』)。その内容は次の通りである。
郡山合戦のさなか、膠着状態だった戦況において片倉小十郎、松川与介の2人が、黒脛巾2,3人を引き連れて、里人に扮して敵方の小屋に潜入した。敵の小屋では戦闘の準備を進めている。小屋の主人(佐竹義宣)の十文字槍や、鐙(あぶみ)、鍋を手にとって、小屋から脱した。松川が鍋を取る際、燃えさしを2つ取り、1つを垣に、もう1つを馬小屋の糠俵の裏に投げ入れた。その後、2町ほど(約200m)離れたところで、小屋が火事になっているのが見えた。折しも小雨が止んで強風だったため、敵の小屋はよく焼けたという。
敵地潜入、放火は、政宗家臣である片倉小十郎、松川与介が行っており、同行した黒脛巾の役割は分からない。特殊な足軽という位置づけと考えて良いのかもしれない。
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詳細35 天正17年(1589) 黒脛巾組のはたらき③ 摺上原の戦い(東北) 信頼度:★★★★☆
【原文】
小十郎[1]ハ稲苗代[2]とひとつになつて心を離さす、見合肝要なりと申含め、
我か身ハ磐梯山に上かり見わたせは、摺上の原[3]広しといへ共、みきりも見えぬほと敵続きたり。合戦の場ハよし、今日の合戦勝利疑ひなしと思ひ、
黒脛巾のもの四五人申つけ、此山の腰につけ、なに事あるともかまハす日橋[4]へ駆けつき、何とそ才覚をもつて、日橋を焼きおとせといひて遣ハし、
絞りて持たせる日の丸の小旗を山先にはりたつる。後に聞ハ、会津衆稲(猪)苗代か城に小十郎一人呼ひ入たると思ひつれは、夥敷(おびただしき)人数にて政宗公の御出馬、
磐梯山に日の丸の旗見ゆるハと案に相違したると一人二人いふこそあれ、跡より崩れかゝる。
しかる所に、坂口の鉄炮なると思へは、横懸りに成実の手かゝるをみて、崩れたちたるほとに、大勢の敗軍なれはともかふもいたすへきやうなく、
逃くるものゝ馬に踏みたをされ、諸道具を投げ捨て命を限りに逃くる、山よりもおろしかけ、首な取りそうち捨てにせよと下知して、田舎道二十余里追打にして、
日橋へ追いつめれは、橋は焼け落ち先へハゆかれす、跡より敵ハ追わるゝ、よりところなけれは馬上も徒者も命を限りに川へ乗り入跳ひ入、此川ハ近国にかくれなき山川の水速くして、
大石多く瀬枕うつて、滝の落つることくなれは、越すへき様なく人馬流れ行事数を知らす。
(木村宇右衛門覚書) (ただし一部平仮名を漢字に改めた)
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【注釈】
[1]小十郎:片倉景綱。伊達政宗の側近。1557-1615。
[2]稲苗代:猪苗代弾正忠盛国。蘆名氏家臣だったが、伊達へ寝返っていた。
[3]摺上の原:摺上原。福島県磐梯町・猪苗代町
[4]日橋:にっぱし。日橋川に架かる橋。
【解説】天正15年窪田合戦に引き続き、『木村宇右衛門覚書』から見いだせる「黒脛巾」の記述である。片倉小十郎は、黒脛巾4,5人に命じて、日橋を焼き落とさせた。結果として、追い詰められた敵方が、日橋のあった所に追い詰められ、なすすべなく川に飛び入ったという。滝のような急流の川で、飛び込んだ敵兵たちは対岸へたどり着くこと叶わず、流れていった。なお窪田合戦とともに、平山優『戦国の忍び』でも取り上げられている。併せて参照していただきたい。
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詳細26 天正18年(1590) 黒脛巾組のはたらき④ 童生淵の戦い(東北) 信頼度:★★☆☆☆
【原文】宇田郡大沢[1]は、金山[2]と菅屋[3]の間の山間なり。
其頃伊達領新地[4]の城代は、糠田隠岐、駒ヶ嶺[5]は黒木中務、小斎[6]は
佐藤宮内-小斎右衛門とも-なり。兵部大輔隆胤[7]は中務が宮内が内を討取らんとの謀慮あって、先づ相馬[8]の
黒脛巾-忍者を指て云-を以て、伊達の黒はばきを語らはするは、「小斎駒ヶ嶺の城代、互に行通ふことあらば、其往来あることを告知せよ。
褒美として料足十貫文取せん」となり。固く互に云合せ、先づ五貫文取せ、残る処は事の首尾畢て後取せんと、約諾して相まつ処に、佐藤宮内今夜駒ヶ嶺へ来れり、明朝は早天に帰る由承るとして、
黒脛巾方へ告知する由、中村[9]へこれを達す。隆胤悦び。天正十八年[10]三月十八日、伏兵百六十人、
伏将には幕内丹波・大浦雅楽祐・草野助右衛門・今村五郎右衛門・桑折帯刀なり。隆胤は草のたはねに出馬なり-草とは伏兵のこと-。警固には北郷五十人、
黒木[11]の加番に来れるを置かれたり。大沢に至て歩卒を伏するところに、癩[12]二人来て、山の上より望み見けるか。
一人立帰ると等しく、馬上一騎歩卒四十人ばかりにて、草捜しに走せ来る。伏兵未だ不調故見顕はさす。幕内丹波敵に乗向て見れば、常々親しくありし草野助四郎と云者なり。丹波心に思ふは伏兵も不調義なり。
隆胤も未だ出馬なし。今日の戦は先づ延すべしと思ひ、此方より呼掛、「夫へでられたるは草野助四郎かと存るなり。仔細あって来りしか、其方には遺恨もなし。互に無事にせられよかし」と云ければ、
助四郎もそろそろ乗寄ながら、「某も幕内と見たり。尤無事にて帰らん。さて何の為に来られしぞ」。丹波が云「佐藤宮内小斎より駒ヶ峯へ来て、今朝帰ると聞に依てなり」。助四郎が云「夫は偽りの沙汰なり。
疾引除てよく聞届けて重ねて出られよ」と。濃々と語る処を、八万大学と云歩卒、四拾間ばかり遠くありしか、ねらひすまして助四郎を鉄砲にて討て落とす。之に依りて向方よりも鉄砲を放ち掛る。
又跡よりも士卒段々折続けば、伏兵の者共押乱され、幕内も鉄砲に中りて死す。向方は新地駒ヶ峰小斎丸森[13]金山[14]坂本
[15]の者ども、兼て約を固め置き、何方にことありても此の如く集り来る。相馬方は伏兵の人数ばかりなり。隆胤は菅屋原まで出馬なり。北郷の者共は椎の木辺迄来るに、
早や事出来しかば、味方は無勢なり。立足もなく追乱さる。大浦雅楽助は常々素肌[16]にして出陣しけるが、敵合へ乗入れ、伏卒に向て各のがれ難きぞ。皆討死しよ。
左なくば歩卒一人も残すまじと云ながら、二三遍乗回りしか。槍にてつき落されて討れけり。草野助右衛門・桑折帯刀・今村五郎右衛門も討死したり。此間に伏卒共漸々に引除きける。かかる処へ門間上総[17]歩卒二十人ばかり引連馳付。敵合へ一さんに乗り込み、槍を以突縮めければ、敵少し猶予してすすまず、之に依りて大勢は討れざりけり。後に聞けば伊達の黒脛巾、相馬の黒脛巾を偽りて、中村勢を引入れ討せんと約して、伊達より五貫文、相馬よりも五貫文、之を取りけるとなり。ゆへに丸森小斎を始め、新地駒ヶ峯の人数牒し合せ、伊達方多数集りけるとなり。
(伊達秘鑑)(--の囲みは引用元の割注を示す。下線は引用者による)
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【注釈】
[1]宇田郡大沢:宇田郡は現在の福島県相馬郡。大沢は不詳
[2]金山:宮城県伊具郡丸森町金山
[3]菅屋:不詳
[4]新地:福島県相馬郡新地町にあった新地城のこと
[5]駒ヶ嶺:福島県相馬郡新地町駒ヶ嶺にあった駒ヶ嶺城のこと。本文中駒ヶ峯、駒ヶ峰もこれに同じ。
[6]小斎:宮城県伊具郡丸森町小斎にあった小斎城のこと
[7]兵部大輔隆胤:相馬隆胤。1551-1590。相馬中村城城主
[8]相馬:相馬氏のこと。当時の宗主は相馬義胤。
[9]中村:福島県相馬市中村にあった相馬中村城のことで、城主は相馬隆胤(相馬義胤の実弟)。
[10]天正十八年:西暦1590年
[11]黒木:福島県相馬市黒木にあった黒木城のことで、城代は門馬貞経
[12]癩:らい。らい病患者のことか。
[13]丸森:宮城県伊具郡丸森町にあった丸森城のこと
[14]金山:宮城県伊具郡丸森町にあった金山城のこと
[15]坂本:宮城県亘理郡山元町坂元にあった坂本城のこと
[16]素肌:甲冑を身に付けていないこと
[17]門間上総:門馬貞経。黒木城城代
【解説】天正17年(1589)から翌天正18年にかけて、侵略を続ける伊達政宗と相馬義胤との間で戦いが展開された。
その結果、相馬氏は大敗を喫し、秀吉の惣撫事令によって戦いは終結した。『伊達秘鑑』では伊達勢の人数確保において伊達の黒脛巾が一役かっていることが述べられている。また忍者という意味で黒脛巾という言葉が使われ、一般名詞的な使い方をされている(史料文の下線部)ことにも注目したい。
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詳細11 慶長5年(1600) 甲賀武士が伏見城に駆けつける(甲賀、伏見) 信頼度:★★★★☆
【原文】近江の御領所代岩間兵庫・深尾清十郎両人、甲賀忍の者五六十人引連来り、籠城せんと願ける。
(改正三河後風土記「伏見城責の事」)
行懸りに此城をば乗取て、直(すぐ)美濃、尾張まで発行せんと思の外、城堅固にして急に責抜事あたはず、其内にもし関東勢責よせばいかにせんと、諸将心をなやましける所に、長束政家[1]計を案じ出し、手勢の中に浮貝藤助とて甲賀のものありしかば、此者へ秘計を授け、松丸に籠りたる甲賀者の中に山口宗助・永原十内両人へ矢文を遣はして「其方共申合回忠(かえりちゅう)して、城内へ火を放ち内応し寄手を引入ば、秀頼公より莫大の恩賞有ベし。此事同意せざるに於ては、故郷に残し置妻子眷族[2]、悉く磔に行はるベし」と申させければ、此者共大に驚き甲賀者四十余人申合「明夜子の刻城内に火の手を揚て、内応すベし」と返答す。(中略)さて長束政家は山口・永原が返書を得て大に悦び、惣大将秀家へ告て諸手へ下知し、惣責の用意して待所、七月廿九日夜子刻城内松丸を始め、其外所々より出火せしかば、城は思ひよらぬ事にて、大に狼狽す。(中略)城兵は内通の者有とはしらず。只力を尽し防戦す。松丸を守りし城兵は内よりも甲賀のもの所々に火を放て裏切し、外よりは寄手大勢にて乱入すれば防兼て岩間兵庫・上林竹庵も討死し、深尾清十郎は生取れ、佐野肥後守は大筒を放て敵を防ぎしが、大筒裂て焚死す。
(改正三河後風土記「伏見落城の事」)
【読み下し】
石田治部少輔[3]逆心仕り伏見御城相改め候由、京都においてこれ承る地侍ども馳参るべき旨申達し、直に伏見御城へ罷り越し、鳥居彦右衛門[4]へ相連れ途中より罷り越し候に付、御軍団の小数具足拝領仕り、名護屋丸へ籠城仕り候処、増田右衛門尉[5]内甲賀の侍
福原清左衛門と申す者、秀頼の書簡ならびに増田右衛門尉折紙相添え、福原別心仕れば当座の音物[6]望次第・本領相違これ有るまじく、
若し又同心せずは末類まで罪科あてがうべき旨書付を以て申し動しそうらえども、同心仕らず、同国永原の者へも書簡ならびに折紙参り候処、別心仕り松之丸へ火伐掛け塀五拾間余り切破り逃出し候
(甲賀組由緒書「望月津之助」)
一、関ヶ原御陣之歳、七月下旬山岡道阿弥[7]方より甲賀へ申し来り候は、
今度石田治部少輔叛逆に依り、上方蜂起、伏見の御城難儀為すべく候間、御忠節は此時に候、甲賀者早速伏見籠城然るべきやと申し来り候に付き、取り敢えず、追々百余人伏見へ懸け出候、
上野中上・鵜飼駿河・芥川正見斎走り廻り相残る三百余人を押し留め候て申し聞き候、追っ付け権現様御父子様責上げなされ候は、御合戦は定めて美濃・尾張両国の間にて御座有るべく候、
天下の安否は、此の御一戦なり、たとえ伏見の御城落城致し候ても、尾濃の御一戦に於いて御勝利得なされるは、天下一統に何の障りが御座有るべきや、所詮君が畑[8]
筋の山中へ引き籠もり、不案内の他国勢を案内の地にて切る処、逼々へ夜討にも、昼討にも敵の不意へ討ちて出、時々敵を脅し、御一戦の刻は、時宜しき御忠節遂ぐべく、かようの方便をも弁(わきま)えず、
伏見への抜懸けは盲士の所為に候、時刻を移さず、君が畑筋へ引き籠もるべきと相定め候処に、長束大蔵大輔伝え聞き、甲賀郡中へ触れ廻り候は、公儀より上意の旨御座候間、急ぎ明日卯ノ刻に、
水口の城へ相揃え申されるべく候、遅参においては越度(落度)なるべしと申し触れ候、惣じて甲賀郡八九里四方の地に諸侍在所々々に分々に罷り有りそうらえば、会合相談も罷り成らず、早速方々より水口の城へ相詰め候処に、
大蔵大輔申され候は、秀頼卿の仰せには、秀吉公の御代に甲賀者の儀を故無く讒言に依り御改易成され候間、今度前々の如く仰せ付けらるべく候、残らず帳面に記し指上げ申すべき旨仰せ出され候とて
、面々を帳面に記し、寂早何れも帰り申さるべく候、しかし上野中上は尋ねたき儀候間、暫く相待たれ候ようにと相留め、早右の内に在々にて人別人質を取り、水口の本丸へ引取り、上野中上をば水口の町端にて張付けに掛け、
諸侍どもをも其の上在々の郷民どもに厳しく預け申し、互いの出合いを差留め申し候故、右の方便も空しく罷り成り候、関ヶ原落居の後、水口へは池田備中守殿加勢数項にてお取巻き、其の後扱いに成り候て、大蔵城を明け渡し、
同所日野の佐倉と申す所にて生害致され候故、人質どもは備中守殿より御痛候て、御返し候、さて亦、伏見籠城の百余人残り少なに討死致し候
(以下略)
(甲賀古士惣代上野又左衛門秀影訴状「乍恐以訴状言上仕候」)
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【注釈】
[1]長束政家:長束正家(?-1600)のこと。秀吉の五奉行の一人。甲賀郡水口岡山城城主で甲賀武士とのかかわりも深い。
[2]眷族:血の繋がっているもの。親族。
[3]石田治部少輔:石田三成のこと。
[4]鳥居彦右衛門:鳥居元忠。1539-1600。家康不在の伏見城を預かり、落城後討死(切腹とも)。
[5]増田右衛門尉:増田(ました)長盛。1545-1615。西軍側武将。
[6]音物(いんぶつ):贈り物、賄賂
[7]山岡道阿弥(山岡景友、後に甲賀百人組を率いる)
[8]君が畑:滋賀県東近江市君ヶ畑。御池岳などに囲まれた山間。
[史]改正三河後風土記:江戸後期に『三河後風土記』(江戸前中期に成立、虚構が多い)を『三河物語』(江戸初期に成立、内容の信憑性は一次史料級と考えられている)などを用いて校正することで編纂された史書。
【解説】これは関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いである。慶長5年(1600)7月15日~8月1日まで東軍方が伏見城に籠城し、多数で西軍方がこれを攻め、伏見城は落城し西軍が勝利した。合戦の詳細は、それを記す良質な史料に恵まれていない。以下、「改正三河後風土記」と由緒書により、甲賀衆に関連することを中心に追ってみる。
6月下旬~7月上旬、近江の代官岩間兵庫、深尾清十郎の2人が甲賀衆5,60人を引き連れて、伏見城籠城に加わりたいと来て、伏見城松の丸に籠る。
7月15日、宇喜多秀家を総大将とした三万九千の軍勢が伏見城を包囲。
7月下旬、山岡道阿弥より「伏見城へかけつけよ、家康に忠義を尽くすのは今ぞ」と伝えられた甲賀衆百余名が伏見城へ向かう。彼らは山岡道阿弥の仲介で、会津へ向かおうとしている家康にお目見えし、扶持を賜って留守を命じられていた。伏見城に到着したときには既に戦いが始まっていたが、ともかく入城して具足を拝領し、名護屋丸に籠もった。
なかなか落城まで攻められない西軍方から内応の書簡が届く。まず届いたのは、増田長盛配下で甲賀出身の福原清左衛門から名護屋丸に詰めている甲賀百人宛てのものであった。由緒書によれば、彼らはそれに同心しなかった。同じ頃、長束正家配下の甲賀者・浮貝(鵜飼)藤助から、松の丸に詰めている甲賀衆へも返り忠を求める書簡が送られた。受け取った山口宗助・永原十内は、それに呼応。7月30日午前0時頃、松の丸に火を掛けた。城内は裏切り者が出たとは知らずに大混乱し、その隙に裏切った甲賀衆は塀を50間余(100メートル近く)も破壊して逃げ出した。
翌8月1日、鳥居元忠は討死し(切腹とも)、伏見城は落城する。
関ヶ原合戦における甲賀衆の動きは伏見城だけではなく、高取城(奈良県高市郡高取町)(ここでは西軍方)、関ヶ原(東軍方)においても活動している。
ここで複雑なのは、岩間・深尾の率いた5,60人と、山岡によって参集した百余人は同じ甲賀者であっても別の集団であるということだ。後に甲賀百人組となったのは、7月下旬に遅れて参戦した甲賀衆百余人の親族である。百余人のうち戦死した者(『甲賀古士旧記』によると、百人のうち七十人)の子孫を中心に、後に甲賀百人組が結成される(詳細12)。
甲賀者の動きとして、もう1つ言及しておきたい。それは、在地の甲賀から出なかった甲賀者たちのことである。彼らは後に幕府仕官を願い出る際に提出した訴状において、以下のように主張する。
山岡道阿弥が甲賀に来て伏見城への参集を呼びかけた。その際上野中上・鵜飼駿河・芥川正見斎らは甲賀地侍300余人を押しとどめた。彼らが言うには、天下分け目の戦いは美濃・尾張両国の間で起こる。山間に潜み、土地勘を活かして敵勢を討ち取るべきである、ということだった。
ところでそれを耳に挟んだ長束正家は甲賀地侍を水口岡山城へ集め、前の改易(秀吉による甲賀ゆれ/甲賀破儀)は取り消して以前のように土地を安堵すると言い、帳面に1人ずつ記名させた。その間に家族などを人質にとって城内に閉じ込め、甲賀地侍の指導的立場にいた上野中上は磔に掛け、西軍の邪魔をさせないよう郷民にも厳しく見はらせたという。関ヶ原合戦後、池田長吉(ながよし)によって長束正家は水口岡山城から出ることとなり、城内の人質も解放された。
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詳細27 慶長5年(1600) 関ヶ原で井伊直政が忍びを使う 信頼度:★☆☆☆☆
【原文】井伊直政[1]を密かに召て『兼て仰含られし如く、敵方へ忍は入置候や』と仰らる。直政承りて、『先日より石田方ヘ両三人も入置候』と申上る。聞召て『石田のみにあらず、宇喜多を始め諸将の方ヘ入置て、動静をうかがはせ敵の挙動謀略を聞出させ、雑説を申ふらし敵の心に疑を生じせしむるは、第一の軍術なり。構へて此事味方にも知らるる事なからん様計ヘ』と仰らる。直政畏り猶又伊賀・甲賀老練の徒数十人を選出し、大垣の城の内外を微行し、あるひは石田が頼み切たる西国大名の中ヘ関東より密旨を仰遣はされ、内々関東ヘ反忠し、今夜引入て大垣へ夜討をかけ、城内には裏切の約束せし者ありといひ、又は城中兼て関東ヘ心をひく者ありて、宇喜多・石田・長束・大谷等言行謀略、一々に関東方へ内通するなどいわせける程に、城中は妄説虚談さまざま起りし程に、軍士の心動揺して更に静ならぬありさまなり
(改正三河後風土記)
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【注釈】
[1]井伊直政:1561-1602。徳川四天王の1人。
【解説】史料文によると、関ヶ原合戦の折り、家康が直政を召喚して、忍びを使っているか尋ねると共に諸将の所へ忍びを派遣し、疑心を生じさせるような工作をするよう命じている。これを受けて直政は伊賀甲賀から熟練の忍者10人を選び、西軍の諸将の元へ派遣したとあるが、真偽の程は不明である。
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詳細12 慶長5年(1600) 山岡道阿弥のもとに甲賀百人組が成立(甲賀) 信頼度:★★★★★
【原文】関ヶ原の戦味方勝利して凶徒みな敗走すとき、入道[1]手の者引具し、城を出て川船に取のり大鳥居にさしかゝる時、長束大蔵少輔正家[2]が敗走して来るにゆきあひ。散々に打ちゝらし首百余切て又桑名城にをしよせ、氏家内膳正行広兄弟を降参せしめ、又神戸、亀山、水口等の城を請取て大津に参りしかば、大御所入道[3]がふるまひを感じたまふこと斜ならず、伏見にて討死せし甲賀土の子孫与力十人同心百人をあづけられ、近江国にて九千石の地をたまはり、其内四千石を以て士卒の給分にあてらる。今の甲賀組はこれなり。
(徳川実紀(東照宮御実記巻六)「慶長八年十二月廿日 山岡景友卒去の条」)
【原文】甲賀組、慶長二丁酉年、伏見に於いて召し出され、与力へ御合力米十石拝領、その後十人扶持下され、地侍同心一人に、三人扶持充拝領、関原已後江州甲賀郡に於いて、知行弐百石拝領(望月伴之助[4])、地侍十人に弐百石、合せて四百石拝領、十人の地侍は、伴之助組に仰せ付けられ、寛永九年壬申、初めて江戸へ罷り下り、山岡主計頭景以組に成り、内桜田御門番相勤め、同十年癸酉、蓮池御門番、同十四年丁丑、江州水口御殿番、正保元年甲申5月、江戸へ下り、坂部三十郎広利組に成り、大手三之御門番相勤め、承応二年癸巳、与力十騎増える(合せて二十騎)
(吏徴別録)
【読み下し】
権現様上聞達し、慶長二酉年加々爪隼人正を以て召し出され、伏見御城に於いて御目見仰せ付けられ、御合力米拾石下し置かれ、同五子年会津へ御出陣の砌、御供願い奉り候処、山岡道阿弥披露にて拾人一同御目見仰せ付けられ思召しこれ有る間、御留守に相残り申すべき旨仰せ渡され御加増として拾人扶持三ヶ月分頂戴仕り、且又地侍拾人へ三人扶持づつ下し置かれ、御出陣已後石田治部少輔逆心仕り、伏見御城相改め候由、京都に於いてこれ承り地侍共馳参すべき旨申達し、直に伏見御城へ罷り越し、鳥居彦右衛門へ相連れ途中より罷り越候に付、御軍団の小数具足拝領仕り、名護屋丸へ籠城仕り候処(中略)
同年関ヶ原御陣相済も、御上洛の節、御前へ召し出され伏見籠城且落城の様子言上仕り候処、上意の旨本多佐渡守殿を以て仰せ渡され段は、先達て少分の御合力米下し置かれ候処、早速伏見へ馳参比類無き働御感悦思召しなされ候、これに依り江州甲賀郡野田村にて弐百石余の処下し置かれ、向後御近習へ召寄せ御取立も遊ばれ下し置かれるべく候えども、甲賀郡数代の住居、離れ候儀迷惑存じ奉るべく候間、諸役御免近国雑生御免仰せ付けられ候間、知行所に罷り在り御用の節は罷り出勤仕奉るべき旨仰せ渡され、且又伏見へ召連れ候地侍共拾人へ組合知行弐百石下し置かれ、組に仰せ付けられ候間、其の後代々支配仕り来る石の通り仰せ付けられ候に付、太刀折紙を以て御礼申上げ、権現様・大徳院様御上洛の節々、毎度京都へ罷り出御目見仕り、同十九寅年大坂冬御陣の節、知行所より組の者召し連れ御共仕り、水野日向守手に属し、御旗本に罷り在り、同二十卯年夏御陣の節同人に属し大和口へ相向かうの節、堀尾山城守家来野々山三郎左衛門・野中吉兵衛と申すもの山城守逆心これ有る由言上仕り候に付、御吟味中石両人・山岡主計へ御預けに相来り、甲賀郡の内鮎河村[5]、山中に差置き候処、元和三巳年右両人山城守へ下され、鳥疵附申さず様召捕り相渡すべき旨、御奉書にて主計へ仰せ付けられ候に付、同年十二月晦日同列梅田武左衛門と申合、御預の組の者召連れ罷り越し、三郎左衛門を召捕り、吉兵衛儀ハ武左衛門召捕り家来拾弐人者組のもの召捕り申候、大猷院様御上洛の度々京都へ罷り出、御目見仕る(以下略)
(甲賀組由緒書「望月津之助」)
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【注釈】
[1]入道:山岡景友(かげとも。山岡道阿弥。1540-1603)
[2]長束大蔵少輔正家:長束正家。↑の詳細11左欄の注釈を参照のこと
[3]大御所入道:徳川家康
[4]望月伴之助:甲賀組の由緒書から、望月津之助の誤りと思われる
[5]鮎河村:現在の甲賀市土山町鮎河及び大河原
【解説】甲賀百人組とは、江戸幕府の鉄砲百人組の1つで、江戸の青山甲賀町(現在の神宮球場近辺)に集住した。与力20人、同心100人で構成され、うち甲賀出身者は与力10人と同心100人全員であった。甲賀組は関ヶ原合戦の後、伏見城籠城戦で戦死した者の子孫を中心に結成されたとされている。しかしそれ以前の慶長2年に、すでに郷士10名ほどが家康に御目見えしていたらしい。その10名とは後に与力となった者たちのことであろう。慶長5年、山岡道阿弥の披露によって再び家康に謁見。家康会津出陣後の関西の守りを命じられた。石田三成挙兵後は、地侍を引き連れて伏見城に籠城。鳥居元忠らと共に戦うが、伏見城は落城した。
その後、家康は京都にて郷士10名を召し、関ヶ原合戦について委細を尋ねた。その際、郷士10名には二百石ずつ、郷士1人に連なる地侍10名にも計二百石を与えたという。つまり郷士1人とその配下で計四百石であり、郷士10人分で計四千石となり、これは『徳川実紀』の記述と見事に一致する。またこの時、関東移住を打診されるが、甲賀者たちは断り甲賀在住を希望。秀忠・家光上洛の際にも京都でお目見えしたという。その間の慶長19、20年の大坂の陣にも、彼らは参陣している(これが後に幕府への仕官活動を展開する甲賀古士との決定的な差である)。
『吏徴別録』によれば、寛永9年(1632)始めて江戸へ下り、その時を以て山岡景以(道阿弥の嫡養子)のもと、甲賀百人組が正式に成立した。5年後の寛永14年には地元に戻って水口城(甲賀市水口町)の番を勤め、正保元年(1644)に再び江戸へ下り、承応2年(1653)に与力が10騎増え(これは甲賀出身者ではない)、この体制が幕末の文久2年(1862)の百人組解体まで続くことになる。
長年、甲賀組の者たちは寛永11年まで甲賀にいたと考えられてきた。これは、甲賀古士らが後年幕府に提出した「乍恐以言上訴状仕候」に、寛永11年の家光上洛の際に甲賀郡内でお目見えしたとあり、『甲賀郡志』などが、その御目見え後江戸へ下ったものと考えてきたからである(同書では「僅に大原氏以下数人上諭に従ひ江戸に転徒し」たと書かれるが、江戸後期の名簿を見ると、甲賀百人組に大原氏末裔はいても、大原姓の者はいない)。寛永11年に家光にお目見えした者の名簿(宮島家文書「御上洛御目見江帳」)が残っているが、そこに甲賀百人組の名前はほとんど見られない。これらのことから、寛永11年より前に江戸に下ったと考えるのが妥当だろう。甲南町杉谷望月家の過去帳にも「望月助之進重長 寛永九壬申歳、御公儀様甲賀古士御召相成、兄重元病身にて、次男助之進重長出勤仕、江戸青山に居所甲賀百人組相勤候」とあり、寛永9年に江戸移住したと書かれる。『吏徴別録』の通り、江戸に下ったのは寛永9年と考えるのが正しいだろう。もっとも、同書によれば寛永14年から正保元年までの7年間は近江国水口で勤めているので、寛永9年の当初から甲賀組の大縄地(集住地)である江戸の青山甲賀町に住んでいたのかどうかは分からない。
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詳細13 慶長9年(1604) 半蔵配下の伊賀者が組頭服部正就の罷免を要求(江戸) 信頼度:★★★☆☆
【原文】此日[1]服部石見守正就[2]改易の罪に処せらる。こは近日江戸市井にて不慮に殺害せらるゝもの多し。たれの所為たるをしらず。よて高札をたて賞金をかけて。その賊を捜索せしめらる。しかるにそのころ伊奈熊蔵忠次が従者。使にまかるとて市中を通しを。正就白昼に切すてたり。よて正就を査検ある処。人違のよし申といへども。其陳状あきらかならず。さては近日みだりに路人を殺害したるも。正就が所為ならんと世人沙汰しけり。(中略)父子二代共に同心二百人をあづかり。采邑三千石を領す。しかるに所属の同心はもと伊賀の国士どもにて。正就も同等の者なれども。正就は父の時より忠勤し。戦功多きをもて登庸せられ。今その官長たり。(中略)いかに今官長なればとても。からくあたるべきにあらず。慈愛を加ふべきを。さはせず奴僕にひとしくかりつかひ。家作営造のとき壁ぬり材を切事までを課役し。其命にしたがはぬ者には俸米ををさへてさづけず。よて二百人の同心ども大にいかり。徒党して奉行所へ目安をさゝげ。弓銃を用意し近所の寺院[3]へ立こもる。よて査検を加へらるゝ処。正就が非道かくれなければ。同心二百人正就が所属をはなれ。足軽大将大久保甚右衛門忠直。久永源兵衛重勝。服部中保正。加藤勘右衛門正次等に分附せらる。されども正就が訴ふる旨により。その首謀の同心十人は死刑に処せらるゝ処。逃去しものありしが。妻子を質とし捜索せられしかば。みづからうたへ出て腹切しものもあり。其中に二人はいまだ出ず。市中にかくれあるよし聞て。正就これを切てすてんと待ゐたるに。彼者正就が門前を通りければ。正就大に悦び飛で出。追かけて後より切たをしけるに。いかゞ見あやまちけむ。彼者にはあらで熊蔵忠次[4]が使者なりしかば。陳謝するに詞なく。かく罪蒙りしとぞ。(家譜。武德編年集成。御朱印帳。慶長日記。慶長見聞書。)
(徳川実紀)
【原文】慶長九年ゆへありて御勘気かうぶり、松平隠岐守定勝にめしあづけらる。
(寛政重修諸家譜「服部正就」)
【書き下し】中野迄御成の節、御先へ罷出で愁所仕り候に付、東叡山[5]宿坊へ寺入仰せ付けられ、半蔵は改役仕り、伊賀者の内にも改役仕り候者これ有る由申し伝え候
(伊賀者由緒)
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【注釈】
[1]此日:慶長10年(1605)12月2日
[2]服部石見守正就:服部半蔵正就(1565-1615)のこと。『寛政重修諸家譜』では服部半三正就
[3]近所の寺院:笹寺(東京都新宿区四谷四丁目)のこと。もと長善寺という名であったが、江戸時代に改称した
[4]熊蔵忠次:伊奈備前守忠次(1550-1610)のこと。なお、熊蔵は伊奈忠次の幼名
[5]東叡山:上野の寛永寺のこと。
【解説】慶長元年(1596)11月服部正成が死去するとその長男の服部半蔵正就は伊賀組の組頭を継ぐ。しかし、次第に伊賀組を自身の家僕のようにこき使い始め、とうとう慶長9年(1604)配下の伊賀者たちは四谷の長善寺に籠り、正就の罷免を要求した。正就は妻の実家である桑名藩松平定勝にお預けで閉門(謹慎)となり、首謀者10名は処刑、伊賀組は大久保甚右衛門忠直・久永源兵衛重勝・服部中保正・加藤勘右衛門正次の4名に分属されることとなった。しかし首謀者10名の内、脱走したものがあり、妻子を人質にとったところ出頭して切腹した者もいたが、2名だけは行方不明のままとなった。正就は恨みに思い、残りの2名を探していたが、翌慶長10年秋に自宅前を通った男を逃亡者とみなし斬殺、しかしそれは伊奈備前守忠次の従者であって人違いであった。当時辻斬りが横行しており、正就は改易となる。約10年後正就は贖罪と徳川家帰参をかけて大坂の陣に松平忠輝の軍で参戦。元和元年(=慶長20年=1615)5月7日の大坂夏の陣の天王寺口合戦で討死したという。しかし、その死骸は発見されなかったため、遺児3人は徳川家帰参叶わず、伊勢桑名・伊予松山・今治の三藩にそれぞれ仕えていくのである。
一方『伊賀者由緒』を始めとする伊賀者の一部の由緒書には、通説とは異なる言及がなされていることが指摘できる。30人ほどの伊賀者が四谷長善寺に集まり、その後中野にいた将軍秀忠の前へ出て直訴に及んだという(井上直哉『幕府御家人
伊賀者の研究』)。
ところで、大坂夏の陣で戦死したはずの正就だが『煙りの末』(黒井宏光著)によれば、戦後脱走して一度伊賀に身を潜めた後、親族を頼って越後国萩城下に逃れ、正就の読みを「まさなり」から「まさちか」に改めて、燕(新潟県燕市)に移り百姓となって75歳まで生き延びた旨が同家の系図にあるという(一部忍びの砦「忍者人別帖」で補完)。その墓・位牌は今でも大慶寺(新潟県三島郡出雲崎町大宇大寺)にあるそうだが、その真贋は不明である。
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詳細28 慶長15年(1610)6月 伊賀者の暗殺例?(伊賀) 信頼度:★☆☆☆☆
【原文】飛騨守秀行[1]は、同十五戌年六月[2]、伏見に来り往せしを、同三十日夜、何者をも知らず殺害す。時に六十三歳なり。或説に、桃谷与次郎[3]、服部平七郎[4]といふ者に通じ、伊賀の忍の者を語らひ、刺殺させて、主人の怨を報ひしと云々。按ずる[5]に是れ其頃の風説か。
(新東鑑)
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【注釈】
[1]飛騨守秀行:中坊秀祐(なかぼうひですけ、飛騨守、1551-1609)のこと。当時の伊賀上野藩主筒井定次に仕えるが、1608年家康に定次の非道を訴え、これが原因で定次は改易となる(この後伊賀上野に転封になるのが、藤堂高虎である)。定次改易後、幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられる。
[2]同十五戌年六月:慶長15年(1610)6月のこと。
[3]桃谷与次郎:筒井定次の老臣職。慶長13年6月20日に定次が改易となったちょうど3年後の慶長16年6月20日に伊賀上野で病死した。享年64歳。
[4]服部平七郎:未詳
[5]按ずるに:考えるに
【解説】史料文によると、中坊秀祐は慶長15年(1610)6月30日に殺害されている。しかし通説では、中坊秀祐が死去したのは慶長14年(1609)2月29日であり、『新東鑑』の年月日と異なる。これらのことからも、『新東鑑』の筆者が述べている通り、これは当時の筒井氏が伊賀上野藩主だったことなどから発した単なる噂話である可能性が高い。さらに、この話の収録されている『新東鑑』は慶長15年より約160年後の1773年頃の著といわれている。
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詳細32 寛永14年(1637)5月 藤堂藩[1]、他藩に仕える伊賀者の国外追放を強化する(伊賀) 信頼度:★★★★★
【原文】
一、永井信濃[2]殿・岡部美濃[3]殿より捨扶持を取、御国ニ罷在候者共之儀扶持方をあげ候か御国を追払可申旨、被仰下奉、得其意候。則申付候処面々申候ハ、他国之者を頼此方より請人ニ立又ハ誓紙を以相極候故隙を取候事、不成首尾ニ御座候由申候。左様ニ候は弥(いよいよ)如御諚御国ヲ追払可申候。跡ノ田畠・家屋敷共ニ其村々百姓ニ永代遣し、似合敷百姓を入候て御役儀等無懈怠(けたい)様ニ申付、彼者二度御国へ出入不仕候様ニ申付候ハゞ、以来迄之御法度も立候様ニ可有御座候哉。如何様御諚次第奉存候
一、右之者奉公ニ罷出候砌、肝煎・請人ニ相立候者抔御国之中ニ御座候かと色々穿鑿仕候得共、口入・請人共ニ甲賀之者手つきを以頼申候て所之者ニハ一円しらせ不申候。将又(はたまた)右之帳面之外ニも御座候かと種々穿鑿仕候得共今迄ハ無御座候、猶以無油断せんさく仕出し候ハゞ、追々可得御意候
一、松平下総[4]殿へ御抱候拾五人之者共、其ぬしぬしはあなたへ相詰妻子迄伊賀ニ置申候間、先其村之者ニ妻子を預ケ宿引越ニ参候共、妻子渡し申間敷由、申付置候。如何可有御座哉、是又御諚次第ニ奉存候
寛永十四年五月十八日
端書
尚々美濃殿へ五十人被召置内四人ハ伊賀ノ者ニて、残て四十六人ハ甲賀ノ者ニて御座候由承申候。信濃殿へ丗人御抱被成内拾人ハ伊賀之者ニて御座候、残二十人ハ是も甲賀之者ニ御座候由ニ候。右之通ニ御坐候へハ人数之高合申候間、御両人之内ニは此度御吟味之外もはや御座有間敷かと奉存候。伊賀之者と申候得ハ此頃も他国よりほしがり候様ニ風聞仕候間、以来ノためと申如御諚別てせんさく入念申儀ニ御坐候。以上
加納藤左衛門
西野佐右衛門
柘植覚兵衛
嶋崎太左衛門
藤堂監物様
藤堂四郎右衛門様
藤堂兵左衛門様
(宗国史)
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【注釈】
[1]藤堂藩:正確には津藩藤堂家の飛び地の伊賀上野の話であるが、ややこしいので藤堂藩と記した。当時の津藩主は藤堂高虎。
[2]永井信濃:永井尚政。1587-1668。上総潤井戸藩→下総古河藩→山城淀藩の藩主で、当時は淀藩主。譜代大名。
[3]岡部美濃:岡部宣勝。1597-1668。大垣藩→播磨龍野藩→摂津高槻藩→和泉岸和田藩の藩主で、当時は高槻藩主。譜代大名。大垣藩主時代に忍者を50人雇う。
[4]松平下総:松平忠明。1583-1644。三河作手藩→伊勢亀山藩→大坂藩→大和郡山藩→播磨姫路藩の藩主で、当時は大和郡山藩主。譜代大名。
[史]宗国史:江戸中期に成立した藤堂藩の藩政史。編者は城代家老の藤堂高文。
【解説】
史料文より寛永14年(1637)の時点で既に伊賀在国の伊賀者が他国の領主に仕えることは禁じられていたが、効力がなかったようである。その為、淀藩永井氏と高槻藩岡部氏に仕える伊賀者を探して辞職しないなら国外追放すると共に、郡山藩松平氏に仕える伊賀者の妻子を村に留めて渡さぬよう具体的に定めている。
端書によると、寛永14年当時、淀藩永井氏に伊賀者10人、甲賀者20人の計30人、高槻藩岡部氏(後に岸和田藩へ移封)に伊賀者4人、甲賀者46人の計50人の忍者が仕えていたことが分かる。
「伊賀之者と申候得ハ此頃も他国よりほしがり候様ニ風聞仕候」とあり、寛永後期ではまだ忍者の需要が全国的に高かったことが窺え、大変興味深い。
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詳細14 寛永15年(1638)1月 島原の乱に甲賀忍者10人が参加(甲賀) 信頼度:★★★★☆
【原文読み下し】伊豆守[1]殿御供仕り、寛永十四年丑の極月[2]
大坂御出船、翌年寅の正月四日伊豆守殿彼地え御滞り無く御着陣成されられ候。同六日伊豆守殿甲賀十人之者共召出され、仰付けられ候儀は、
唯今御方之仕寄先より敵城之塀際迄之間数、沼の深さ、塀の高さ、矢狭間之体(てい)、巨細御不明に在らせられ候に付、具(つぶさ)に御絵図に御記、
明日江戸表え御注進成されられ度く思召侯間、成可き事に候は、忍寄り見謀い候様仰付られ候に付、御請を申上げ、則ち其之日夜に入り、
芥川七郎兵衛、望月与右衛門、山中十太夫、岩根勘左衛門、望月平太夫、右五人者共早速有馬玄蕃殿御仕寄場え罷出御断申、
木戸を開かせ竊に敵城之塀下に忍寄候処、城中より猿火下打ち、続松明を投げ、油断無く用心致候故、塀際に味方討死之死骸共これ有る中に紛れ伏し、
夜陰に及び候て城中之鳴音も少し謐(しづま)り候時分、二の丸出城迄間数、沼之深浅、道之善悪、塀の高さ、矢狭間之切様、具に測り、後日証拠として出城之角に竪木を差杭に仕り、
之を験(しるし)置て罷帰り、此旨伊豆守殿え委細申上候処、御感服成らせられ、天時手柄之段仰せ聞かされ候御事(以下略)
(鵜飼勝山実記)
【原文】十二日[3]、十三日、十四日、十五日、近江国甲賀より来る隠形の者、城中に入らんと欲し、夜夜忍び寄る。然れども城中の賊、一人も西国語ならざるは無し。且、吉利支丹宗門の名門を称して、知るを得ざるもの甚だ多し。この故に、城中の賊と交居する能はず。一夜、城中に忍び入るの時、賊則ちこれを知りて之を逐ふ。ここに於て、塀畔の旗を取りて城外に出づ。賊、石を以て強くこれを打つ。
(島原天草日記)
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【注釈】
[1]伊豆守:松平伊豆守信綱。老中。別名「知恵伊豆」。
[2]寛永十四年丑の極月:1637年の12月
[3]十二日…:寛永15年1月
[史]鵜飼勝山実記:松平信綱に同道した鵜飼勘左衛門の子孫の記録。
【解説】島原・天草地方の農民がキリシタンと組んで、天草四朗時貞を盟主と仰ぎ原城(長崎県南島原市南有馬町)に立てこもった反乱が、島原の乱(島原・天草一揆)である。幕府は板倉重昌を派遣したが難航
見かねて松平伊豆守信綱を派遣する(これを聞いた重昌は少数の兵と共に突撃し、討死している)。甲賀衆は、この松平信綱を水口宿で迎え、召し連れるよう頼み、大坂まで百余名がついていくが、
ここから先の海路では大勢は連れて行けないと断られ、代表として10名の甲賀者がついていくことになる。
この10名とは、①鵜飼勘左衛門 ②望月兵太夫 ③望月与右衛門 ④芥川清右衛門 ⑤芥川七郎兵衛 ⑥山中十太夫 ⑦伴五兵衛 ⑧夏見角介 ⑨岩根勘右衛門 ⑩岩根甚佐衛門
であった。
甲賀者の動きについて、「鵜飼勝山実記」および「甲賀衆肥前切支丹一揆軍役由緒書案」(山中文書)などを参考にまとめると、少し長くなるが以下のようになる。
総大将・松平信綱一行に加わり、寛永14年12月大坂を出航。翌年1月4日に到着した。6日、松平信綱が甲賀者10名に対し、①敵城の塀までの距離と②その高さ、③矢狭間の形、④沼の深さについて詳しく調べ、絵図にして提出するよう命じる。早速その夜、芥川七・望月与・山中・岩根・望月兵の5名が敵城塀下へ忍び寄った。城中は(空堀に)松明を投げるなど用心していたが、味方の死骸に紛れて隠れ、城中が静かになったのを見計らって①二の丸出城までの距離、②沼の大まかな深さ、③道の良し悪し、④塀の高さ、⑤矢狭間の形状を調べ、忍び込んだ証拠として出城のカドに堅木を差し込んで帰還。
11日に松平信綱は、兵糧1俵ぶん捕ることを鍋島勝茂が注進したので、甲賀者に相談するよう言った。松平に、米をぶん捕るなどは罪になると申し上げると「敵陣にとって兵糧は最も大切であり、1粒でも取り上げれば手柄になる」と言う。そこで早速その夜、黒田忠之の陣から敵城へと忍び寄り、海側に保管されていた兵糧を13俵盗み、松平に報告した。手柄を褒められ、それ以後は黒田の陣にいることになった。
城中で毎夜何か唱えているので、鵜飼・芥川七・芥川清・伴の4名は何を言っているのか密かに聞き出し、報告した。
27日、城中の様子を見るよう命じられ、望月与・芥川七・夏目・山中・伴の5名で忍び込むことになった。夜、城中が静かになるのを待った後、芥川七と望月与が潜入したところ、望月与が落とし穴に落っこち、敵が騒ぎ出した。なんとか引っ張りだして敵の中を駆け抜け、待機していた3人が2人を背負って脱出した。2人は石を大量にぶつけられ、半死半生だった。松平に報告すると、早速医師を付けてくれた。その後は8人で味方の陣の夜警などをした。
島原の乱に参加した松平輝綱による『島原天草日記』には、由緒書の最後の話と合致する記述があり、”由緒書”である分差し引かなければならないが、ある程度事実を語っていることが確認できる。
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詳細15 寛政元年(1789) 大原数馬ら幕府に『萬川集海』を提出する(江戸) 信頼度:★★★★★
【原文読み下し】
一、三月十日[1]四ツ時、松平右京亮様[2]御玄関へまかり出、(中略)八ツ時まかり出、暫く相待ち居り申し候処、御吟味に付きまかり出候よう申し渡され候(中略)
御尋ね「その中間[3]忍術秘事、封のまま差上げ候事はあい成らずや」、「恐れながら此の儀は、私[4]壱人にてお請け申し上げ候義相成り申さず候、尤も書面の儀は差上げご覧に入れ申すべく候」、「その書物何冊これ有り候や」、「およそ二十巻ほど御座候」、「その紙数何ほど」と御尋ね成され候、御答え「余計御座候ところ、二十枚余御座候」、御尋ね「中ヶ間の内、幼少の者これ有る節は、その術・書物等そのままに差し置き候や」、「幼少に御座候時節は書物等中間の老年のもの預かり置き、成人仕り候て、口伝はこれを口伝し、諸書物相渡し申し候、尤も御盃[5]はこれ有るべしと仰せられ候、中間の内に預かりおり申し候」(中略)
一、同十六日九ツ半時まかり出候処、御用人神谷弥平申し渡され候、先だって申し上げられ候書物、なおまた私々書き置き候書面等国許へ申し遣わし、猶委細申しあげるべく候よう、右京亮申し付けられ、承知奉り畏み候、引取り申し候
一、同十七日、国許へ申し遣わし候
一、四月十一日、大原数馬・隠岐守一郎着、(中略)
一、同日(十五日)九ツ時三人ともまかり出、神谷弥平へ面談致し候て、
島原一揆の記 壱通
一、足利義昭公[6] 御書壱通
一、滝川左近将監一益書 壱通
一、御盃
一、銘々系図 三通
右の通り差上げ申し候ところ、御盃の儀は大切の品ゆえ、先にお渡し申し候て差し戻る
一、御封物いかようの御封これ有り候旨、御尋ね候に付き書上覚え、忍術の書万川集海十冊・同軍要秘記壱冊(中略)
一、同二十日七ツ時、三人ともまかり出、先刻仰せ渡され候通り封印のまま差上げ申し候、左の通り
一、御盃 箱入
一、忍術の書 十冊
一、軍要秘書 壱冊
右の通り差上げ申し候、以上
四月二十日 隠岐守一郎・上野八左衛門・大原数馬
松平右京亮様 御役人中様
外に望月仙蔵家に持ち来し候処の古き書巻物差出し申し候、残らずお請取り置かれ候、以上(中略)
(六月十一日)七ツ時まかり出、暫く差しひかえ居り申し候、それより右京亮様御前へまかり出候処、仰せ渡さるるの趣左の通り
甲賀の者このたび出府候て相願い候趣は、今更御沙汰及ばれ難き事に候、術の儀に付き持伝候書物等、年来大切に致し置き候段、奇特成る儀一段の事に候、この上も申し合わせ、いよいよ退転無く心掛け申すべく候、持参候書物等御下げに相成り候に付き、書面の通り御褒美としてこれ下され
一、銀五枚づつ 甲賀より出府候 三人の者
一、銀二枚づつ 当時術心掛け候 八人の者
一、銀壱枚づつ それを除く 八人の者
六月十一日
(在府日新録)
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【注釈】
[1]三月十日:寛政元年(1789)の3月10日
[2]松平右京亮様:松平輝和(てるやす)。1750-1800。上野高崎藩主。当時寺社奉行を務めていた。
[3]中間(なかま):仲間のこと
[4]私:ここでは上野八左衛門のこと
[5]御盃:甲賀古士の訴状によれば、永禄5年(1562)の鵜殿退治の際に、家康から賜った盃
[6]足利義昭公:1537-1597。室町幕府15代最後の将軍。将軍継承を宣言しつつも、まだ一乗院覚慶と名乗っていた永禄8~9年(1565-6)の一時期、甲賀の和田氏城の一角に身を置いていた。
【解説】甲賀古士(甲賀に在住しつづけた旧甲賀郷士)の幕府への仕官活動は寛文7年(1667)から始まる。将軍・家綱の死去による一時中断を経て、元禄9年(1696)まで続くが、この年を最後に中絶した(寛文訴願と呼びたい)。
その後、天明8年(1788)、上野八左衛門と大原数馬は上洛していた老中・松平定信を尋ね由緒書を提出するも梨のつぶてだった。翌寛政元年(1789)上野八左衛門は事態を打開すべく出府(江戸行き)を決意。江戸に下って松平の役宅を訪ねると、「こちらでは取り扱えないので寺社奉行に提出しなさい」と言われ、今度は寺社奉行・松平輝和の役宅へと向かい、願書を提出した(寛政訴願と呼びたい)。
同日、松平輝和から直にお尋ねがあり、甲賀古士の由緒や上野自身のことについて尋ねられた。その中で、忍術秘伝書の存在を語り、今度それを提出することになる。上野は故郷にいる大原らに手紙を書き、4月11日大原数馬と隠岐守一郎は「万川集海」を始めとする書類を携え、江戸にやって来る。20日、上野・大原・隠岐の3人で「万川集海」などを提出。その間にも度々召喚され、お尋ねがあった。しばらく日数が開き、6月11日やっと書類を返却され、江戸に来た3人には銀5枚、甲賀二十一家のうち忍術を相伝し訓練している8人には銀2枚、困窮し忍術の相伝が出来ていない8人には銀1枚が与えられた。
書類一式は返却されたが、「万川集海」と「軍要秘記」は幕府の蔵書となり、現在は内閣文庫として国立公文書館に所蔵されている。左に掲げた『在府日新録』には書かれていなかったが、「望月仙蔵家に持ち来し候処の古き書巻物」とは古い書簡のことであり、他に「古忍書 二冊」も提出されたことが、同様の江戸訴願記録『甲勇記』に書かれる。この「古忍書 二冊」とは何だったのか、今となってはよく分からない(国立公文書館蔵書から適当なるものを探せば、「忍松明目録」「伴党水党并甲賀侍由緒書」があるが、これなのだろうか)。
幕府の回答は「今更どうすることもできない」というものであったが、訴願に来た3名は甲賀に戻った後、「御褒美も貰ったので、きっとそのうち御沙汰があるだろう」と話している。それを彼らがどの程度信じていたかは分からないが、しかし幕府から歴とした「甲賀古士」のお墨付きをもらったことは、没落しつつある彼らにとって、極めて喜ばしいことだった。地元での面目を保つべく、幕府仕官に懸命だった彼らの活動を経て、忍術書「万川集海」の浄書が現代でも国の公的機関に残っているというのは、過去と現在を繋ぐ歴史の面白さのようにも感じる。
彼ら甲賀古士はその後も訴願活動を緩やかに続けるが、結局願い叶うことはなかった。農民身分の彼らが再び軍事活動に身を置くのは、幕末文久3年(1863)の甲賀勤皇隊の結成まで待たねばならない。
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詳細16 嘉永6年(1853) 澤村甚三郎保祐が黒船を探査(浦賀) 信頼度:★★★★☆
【原文】其当藩主藤堂和泉守高猷(たかゆき)公の命を奉して御内用[1]、彼の浦賀の軍鑑を捜索せよと被仰付(おおせつけられ)、服従[2]、彼の地に至り、直(ただちに)其鑑へ接続(中略)其御内用の有様、詳(つまびらか)に言上致し(以下略)
(澤村家文書)(但し片仮名を平仮名に書き改めた)
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【注釈】
[1]御内用:内密御用
[2]服従:承知
【解説】澤村保祐は黒船に乗船後、「種重の待遇を受けたる末」(澤村家文書)、パン2個、煙草2葉、蝋燭2本、蘭語で書かれた紙片2枚を貰い、持ち帰る。澤村家文書にはこの事は嘉永6(1853)年とあり、これはペリー初来航の年であるが、『戦国風雲忍びの里』(別冊歴史読本・新人物往来社)「黒船を探索した最後の忍者」で作家・栗原隆一氏は、この事は嘉永7(1854)年ペリー再来航時に催された艦上招宴の際のことではないかと指摘している。
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