『万川集海』の誕生の理由
『冨治林家由緒書』を検討した前川氏は「藤林家にとっての『萬川集海』は、仕官のための書として、保道(保武)の代に至って体裁を整えた」と指摘する。これまで「江戸時代になり、忍術継承が困難になったため、備忘録として忍術書が作成された」などと理解されることもあったが、前川氏の指摘に則れば、就職活動のためのポートフォリオや忍術継承者の証として作られたことになる。
万川集海は当初、現在知られる形で完成していたわけではなかった。亀山市の個人蔵本(亀山市歴史博物館のウェブサイトにて公開)の22巻(「忍器
四下」、他の本では「忍器 五」)には、保道宛の火術皆伝の文面が収録されている(福島嵩仁「「万川集海」の伝本研究と成立・流布に関する研究」)。文面の差出人は、藤堂藩伊賀者の長井亦兵衛である。忍器篇は火器のみ2巻に分かれているが、2巻目は長井から教わった火器なのだと分かる。書状の作成年は元禄16年(1703)で、万川集海の成立とされる延宝4年から37年後に相当する。
これは保道が伊賀者として藩に仕え始めてから2年後のことであり、同僚から教わったことを最終巻として付け加えたことになる。保道は、仕官のみの目的で著したわけではなかったようだ。万川集海とは、冨治林保道が、家伝の忍術に、他の軍学書などから学んだ知識、さらに新規に自らが修めた術を加えたもので、書名のとおり、忍術に関連する可能な限りの情報の集約を目指して著したのだと考えられる。
ただし、いくつかの写本には「藤林保高述」と書かれ、単なる著者表記の揺れの可能性もあるが、藤林保道の父・保高の時代にすでに「万川集海」として、まとまり始めていた可能性もあることには注意が必要である。
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