万川集海の著者・藤林保武とは誰か
藤林保武については、冨治林家に残る過去帳や伊賀上野の西念寺に残る墓石から、冨治林伝五郎保道であることが、伊賀の郷土史家の中で指摘されてきた。墓石には「保道」と刻んだあとに「保武」と修正した跡が見られ、同時代に認知されていた名は保道だったようである。
『冨治林家由緒書』によると、冨治林又八郎保高は「長門守流儀之忍書」を長年にわたって鍛錬していた。その甲斐あって、寛文4年(1664)に飯山藩松平家に仕えるものの、訳あって翌年辞めることになる。その際「挟箱舟」「浮沈沓」を献上したという。保高はその翌年(1666)死去し、跡を継いだのが保道だった。元禄14年(1701)に藤堂藩に「伊賀者」役として仕え、宝永5年(1708)に病死している。保道の跡は、左武次氏昌が継いだ。(一連の流れは、前川友秀「藤堂藩伊賀者の系譜『冨治林家由緒書』をひもとく」に詳しい。)
これまで著者の別名を「左武次保高」とする説もあったが、万川集海の成立が延宝4年であることを踏まえると、左武次でも保高でもなく、伝五郎保道だと確認できる。由緒書で興味深いのは、冨治林家に伝わっていた「長門守流儀之忍書」という忍術書である。万川集海は『間林精要』という書物を元に書かれている。『間林精要』という忍術書は実在するものの、内容は薄く、遠く万川集海に及ばないという。あるいは、この「長門守流儀之忍書」こそが『間林精要』だったのだろうか。
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