鳥取藩藩主をながきにわたって務めたのは、池田輝政の子の忠継の家である。1603年、忠継は小早川秀秋に代わって岡山藩主となった。一方その弟の忠雄は、1610年に淡路洲本藩主となる。1615年に岡山藩主忠継の早世により、兄の跡を継ぐかたちで忠雄が岡山藩主となる。その子の光仲は家督相続時に幼少だったため、当時鳥取藩主の池田光政(姫路藩主・利隆の子で、輝政の孫。つまり光仲の従兄)と交換するかたちで、鳥取藩に転封となった。以後、明治に至るまで光仲の子孫が藩主を務めることになる。
鳥取藩池田家には、伊賀出身の忍びが仕えた。その職務や各家の経歴については、凛「鳥取藩御忍の基礎的研究」が詳しく報告している。以降、『鳥取藩史』および同論文が紹介する史料をもとに、若干の考察を加えながら記述する。
凛による整理(論文の65頁の図など)をもとに読み解けば、当初の彼らの呼称は「夜盗」であり、2~3名の「夜盗頭」に、それぞれ3~6名の夜盗が預けられていた。寛文3年(1663)頃になると職制の改革が行われ、夜盗は「忍」と改称された。統率する者も一新され、4~6名の「目附(大横目)」に、それぞれ3人が組の者として所属することになった。ただし、名称の変化は徹底されておらず、藩内で浸透するまで少なくとも20年は要したようである(天和3年=1683年の家老日記でも「夜盗」という名称が見られる)。
「忍」は徒格で、士分以下の身分だったが、特別に藩主へのお目見えが許されていた。これは後述する「御内御用」などを勤めるため、必要であったことも理由の一つであろう。
その職務について、凛によれば、①城下の見廻り、②領国の見廻り、③藩主御供、④城での不寝番、⑤藩主御供の不寝番、⑥御内御用に分けることができるという。①城下の見廻り、④⑤城および藩主御供の不寝番の主目的は「火の用心」である。これが実質的な主たる職務だったようで、この過失(火事発生の見逃し)によって御役御免かつ国外追放となった者もいることが報告されている。
③藩主御供は、参勤交代の際の御供と「御入湯御供」の主に2種類がある。参勤交代の場合は、原則としてそのまま江戸に詰めた(これを「詰江戸」という)。「御入湯」とは、鳥取藩主が領内の温泉に行くことを指す。岩井温泉(鳥取県岩美町)、吉岡温泉(鳥取市)、勝見温泉(同、現在は廃湯)の3箇所が宛てられており( 「第42回県史だより」参照)、藩主が温泉へ向かうのに御供したようだ。なお道中や入湯先で宿泊する際には、⑤不寝番を務めた。温泉というと牧歌的だが、先の御役御免と国外追放のコンボとなった処罰の出来事は、この入湯先で起こったことであった。
②領国の見廻りは「在廻り」と称され、春と秋の年2回、町目付と分担して実施したという。その目的は明らかではないが、町目付と行っていることから、村や町に異常や問題が無いか巡検していたのだろう。
⑥御内御用は、「本役御用」「御直御用」とも記述され、国内外の探索業務である。なお、「忍」から役替となった後にもかかわらず、特別に探索業務を行っている者がいるが、その業務は「御内御用」とは言わずに「探索御用」と言った。このことから、厳密には「忍」が勤める探索業務に限定して「御内御用」という名称を使うようである。また別名の「本役御用」という名称からは、この探索業務こそが、鳥取藩「忍」の本来の主任務であると分かる。
「忍」を務めたのは新、伊賀、吉岡、国府、安場の姓を持つ16家であるが、「夜盗」時代には奥、梯、城などの姓も見られる。このうち最も古くから池田家に仕える新家は、服部平内左衛門の末裔を名乗る、伊賀の服部家だった。織田信雄の協力者である仁木友梅の追放に関わり、第二次天正伊賀の乱で一族が滅亡の危機に及ぶなか、幼少だった先祖が逃げ、成長して姫路藩主・池田輝政に仕えた。その先祖の子も池田家に召し出され、忠雄の淡路洲本藩入封に従い、さらにその孫は岡山→鳥取への転封に従うことで、以後仕え続けた。また、伊賀という珍しい姓の家があるが、実際は新の分家で、自らの出自にちなんで改姓したという。吉岡、国府、安場は、いずれも江戸期になってから召し抱えられたようである。彼らは、昇格や幕末の軍制改革で「忍」の職を離れたり(「家業御放」)しながらも、明治まで仕えていたことが分かる。
|