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 江戸時代、全国の藩で忍びが召し抱えられており、彼らは伊賀者、甲賀者、忍之者などと呼ばれていました。 この近世諸藩の忍びの先駆的な研究として川上仁一氏の「江戸大名家と忍び」(『別冊歴史読本 伊賀・甲賀忍びの謎』所収)があります。このページでも全体にわたって参考にさせていただきました。

 見出しには、藩名(複数ある場合は代表的なもの)と藩主の家名、忍びを召し抱えていた期間を示しています。 内容には、藩の情報として藩の変遷、歴代の藩主を示し、忍びの情報として名称(役名)、系統(伊賀/甲賀/独自)、召し抱えられていた期間、 人数、居住地、家屋敷の広さ、家格、俸給、主な職務、関連文書(関連する古文書)、解説、参考文献を掲載しました。

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-INDEX-

【松江藩】堀尾家(1600年~1633年)

藩の変遷 出雲富田藩(1600年~1611年)→ 松江藩(1611年~1633年)
藩主 堀尾吉晴→忠氏→忠晴
名称 伊賀鉄炮、伊賀之者、忍之者 系統 伊賀
期間 1600年~1633年 居住地 現在の松江市外中原町
人数 3人~40人 家屋敷の広さ 120~150坪
俸給 13石5斗3人扶持 家格 足軽並?
職務 鉄砲隊(関ヶ原の戦い、大坂の陣に参加)
関連文書 なし
解説  堀尾忠氏はもと遠江浜松の大名であったが、関ヶ原の戦いで毛利氏が周防・長門2ヶ国に減封となると、出雲・隠岐2ヶ国を領する形で出雲に入り、出雲富田藩の藩主となる。 1604年堀尾忠氏逝去に伴い、嫡男忠晴が幼少ながら跡を継ぎ、1611年に松江へ移って松江藩藩主となる。しかし嗣子に恵まれず、1633年、忠晴逝去により堀尾家は改易断絶となった。
 最初3人の「伊賀之者」が召し抱えられたという。1600年の関ヶ原の戦いに参加したというから、堀尾忠氏によって召し抱えられたものと思われる。 その後松江へ移るにあたり、「忍之者」と改称して人員増加となり、40人となった。伊賀者たちは、堀尾忠晴のもと大坂の陣に参加している。徳川実紀にも 「(忠晴は)上杉を援んと鴨野口へ軍をすゝむれども景勝勢虎口をゆづらねば堀尾は上杉が備の南より押出し鉄砲を放し、伊賀雑賀の銃卒八十人三間ばかり前へをしいだし、膝台にて打立しむ」と書かれている。
  1632年~33年頃(忠晴が死去する直前頃)に比定されている給帳によれば、伊賀者は40人いて、俸禄は40人で540石余りだったことが分かる。割り算すると、一人につき13石5斗ほどになる。 なお雑賀衆も40人いたようで、伊賀者・雑賀衆足して80人ということは、大坂の陣の頃から人数は変わっていないものと思われる。
 島根大学附属図書館蔵の「堀尾期松江城下町絵図」には、その伊賀者たちの居宅が書き込まれており、伊賀者の居宅は城下の中でも南西の端に位置していたことが分かる(「堀尾期松江城下町絵図」  http://da.lib.shimane-u.ac.jp/content/ja/2257 )。伊賀者が集住した地区に西接する清光院は、今もなお同じ場所にある。
 堀尾家が改易となって流れた伊賀者は、岡山藩池田家、高松藩生駒家などに仕えた。
参考文献 松江市教育委員会「春光院所蔵の堀尾氏関連文献史料について」(『松江市歴史叢書』1号、2007年)
大矢幸雄・渡辺理絵「近世初期における松江城下町の空間的特性」(『松江市歴史叢書』11号(『松江市史研究』9号)、2018年)

 

【徳島藩】蜂須賀家(1640年~1869年?)

藩の変遷 徳島藩(阿波+淡路)(1600年~1871年)
藩主 蜂須賀家至鎮→忠英→光隆→綱通→綱矩→宗員→宗英→宗鎮→至央→重喜→治昭→斉昌→斉裕→茂韶
名称 伊賀者 系統 伊賀
期間 1640年~1869年? 居住地 伊賀士丁(徳島市伊賀町)
人数 10家程度(3人~16人) 家屋敷の広さ 約300坪
俸給 5人扶持16石(京枡にて支給) 家格 徒士格(士)
職務 城・老中宅の警固、参勤交代の警護、他国の一揆調査など
関連文書 「伊賀者聞合書」(国文学研究資料館蔵)
「風聞書」(徳川林政史研究所蔵)
解説  徳島城跡から見て南西の山際に、徳島市伊賀町がある。この地に住んだ徳島藩の伊賀者に由来する地名だ。彼らはもと松江藩堀尾家に仕えた伊賀者であったが、 藩主が改易となって流浪し、その後高松藩生駒家に仕えるものの、今度は御家騒動によって再び流浪の身となった。その後、江戸にて就職活動をしていた伊賀者十数人が、徳島藩蜂須賀家に仕えることとなった。
  しかし伊賀者は、徒士(格)として4人扶持14石で召し抱えるという条件に対し、いったんは俸禄が少ないので断ったという。そのため、特例として、 徳島藩で一般的に使われていた枡よりも大きい京枡にての扶持米支給となった(後に召し抱えられた分家などで、京枡取ではない伊賀者家もある)。
  伊賀者は、平時は徒士と同じ職務にあたっていたようだが、元文3年(1738)以降は城と家老宅に交代で詰めた。また藩主や藩主の子息の遠出には護衛として付き従った。 参勤交代では不寝番をしていたことが分かっている。他に、探索業務も行なっており、寛延元年(1748)から翌年にかけて姫路藩で発生した大規模な百姓一揆(姫路藩寛延一揆)を、現地の姫路まで赴いて調査を行なっている。 そのときの記録が、「伊賀者聞合書」(寛延2年成立)として、国文学研究資料館の蜂須賀家文書に残されている。
 また、伊賀者は、毎月末に「風聞書」の提出していた。特に何もなければ「当月中見聞仕儀無御座」と書くが、記録が残るものの中には、規定から外れた衣服や髪が藩内の婦女子の間で流行していること、物価高で人々が困っていること、さらには生活費を他所の女に貢いで家族が困っている藩士の名前まであり、多岐にわたっている。こうした「風聞書」の提出は、少なくとも明治元年12月までは継続されていた。
  伊賀者の多くは「伊賀役」という役職に就いていた。この職務内容について明確に示す史料は無いのだが、前述の伊賀者の職務が、この伊賀役に相当するのだろう。 各家の由緒書を見ると、伊賀役を「本役」としつつも、他の役職へ頻繁に出ていたようである。なお伊賀役は伊賀者しか就けなかったのかというと、そうではなく、伊賀者以外の家から就く者もいた。
  ところで、徳島藩の伊賀者は、自らが「忍び」であることを主張しない。藩からも「忍」などと呼ばれた記録は無い。そのため忍者ではないと見る向きもあるようだが、その職務は他藩の忍びと共通するものである。 また伊賀者だけが「京枡取」であることは、彼らの稀少性を語っており、忍びとしての働きを期待されて召し抱えられたのは間違いないであろう。
参考文献 高田豊輝『阿波近世用語辞典』(2001)
徳島城博物館「とくしまヒストリー~第19回~「伊賀町」ー城下町徳島の地名7」
井上直哉「徳島藩伊賀者の基礎的研究」(忍者研究2、2019)
井上直哉「忍びたちの明治維新」(山田雄司編『忍者学大全』東京大学出版会、2023)

 

【福井藩】松平家(1649年~1866年)

藩の変遷 北ノ荘藩=福井藩(1600年~1871年)
藩主 松平秀康→忠直→忠昌→光通→昌親→綱昌→吉品(昌親)→吉邦→宗昌→宗矩→重昌→重富→治好→斉承→斉善→慶永→茂昭
名称 忍之者 系統 独自
期間 1649年~1866年(予備組へ編入) 居住地 毛矢町(福井市毛矢)→餌指町(福井市宝永1丁目~日之出5丁目)
人数 10人 家屋敷の広さ 40~50坪
俸給 9石2人扶持 家格
職務 探索業務、参勤交代の警護、武器庫の管理、門番
関連文書 「風説書」(福井県立図書館松平文庫蔵)
「隠密秘事忍大意」(伊賀流忍者博物館沖森文庫蔵)
「義経流陰忍伝」(川上仁一氏蔵、角川新書『忍者の掟』所収)
解説  長野栄俊「福井藩の忍者に関する基礎的研究」(忍者研究1)によると、慶安2年(1649)4代藩主・光通の命を受けた井原頼文(軍学師)は、関東で機敏な者10人を選抜し「忍之者」とした。 またその後「忍之者下役」10人を採用して、「忍之者」に付属させた。忍之者の人数は10名から変動は無いが、下役の人数については時代ごとの変動が激しいとされる。また両者の人数枠は10人ではなく、 11人であった可能性がある(言い換えると忍之者は常時1人欠員ということになる)。
 業務は忍び御用、藩主参勤交代の御供、武器蔵の管理、武芸稽古所(安政4年設立)の門番、兵学や半弓の稽古であった。忍び御用としては、明和5年(1768)の百姓一揆の調査、 嘉永6年(1853)の浦賀~江戸湾の沿岸防備の見聞、元治元年(1864)の幕末京都の情勢探索などで、幕末京都の探索報告は「風説書」として松平文庫に現存している。
 幕末の探索にも一役買っていた忍之者であったが、慶応2年(1866)予備組へ編入となり、忍之者は廃止となった。
 ほかに、現存している忍術伝書との関連も、長野氏が明らかにしている。伊賀流忍者博物館の沖森文庫「隠密秘事忍大意」は福井藩の忍之者の間で交わされた忍術書と考えられる。 また川上仁一氏蔵「義経流陰忍伝」(角川新書『忍者の掟』に収録)の旧蔵者と同姓の者が、福井藩忍之者の中に見出せるという。詳しくは長野氏の論文をご参照いただきたい。

【年表】
慶安2年(1649)4代藩主・光通の代に「忍之者」10名採用、初代頭は井原頼文
慶安年間(1648-51)?「忍之者下役」が10名採用
明和5年(1768)百姓一揆の調査
嘉永2年(1849)2代藩主忠直(豊後に配流)の墓・位牌調査
嘉永6年(1853)浦賀~江戸の湾岸警備を見聞
元治元年(1864)京都の情勢探索
慶応2年(1866)予備組へ編入(忍之者廃止)
参考文献 長野栄俊「福井藩の忍者に関する基礎的研究」(忍者研究1、2018)

 

【尾張藩】徳川家(1672年~1869年)

藩の変遷 尾張藩(1607年~1871年)
藩主 徳川義直→光友→綱誠→吉通→五郎太→継友→宗春→宗勝→宗睦→斉朝→斉温→斉荘→慶臧→慶恕→茂徳→義宜→慶勝
名称 (木村家)/甲賀五人 系統 甲賀
期間 1672年~1869年(版籍奉還) 居住地 名古屋/甲賀(郷土在住)
人数 1人/5人 家屋敷の広さ -/(郷土在住)
俸給 18石3人扶持/5両 家格 五十人格(御目見以上)/(郷士)
職務 鉄砲・大筒披露(年1回)、探索業務
関連文書
「甲賀忍之伝未来記」(無窮会専門図書館神習文庫蔵 ほか)
「用間加条伝目口義」「用間俚諺」「用間伝解」「用間伝解口伝抄」(蓬左文庫蔵)
渡辺俊経家文書(甲賀市蔵)
解説  文化11年(1814)に甲賀五人によって書かれた「達し書并願留」によると、初代藩主・義直の時代に、甲賀忍びの者が20名ほど採用されていたが、よんどころなき事情により解雇されたという。 藩に残っている史料(「昔咄」)には、初代義直の時代に甲賀忍びの者を17名召し抱えていたが暇(いとま)を出された、と記されており、人数の多少はあれど内容は合致するので事実なのだろう。 解雇された理由について、「達し書并願留」の発見者である鬼頭勝之氏は、甲賀者らが甲賀在郷を望んで名古屋への移住を断ったためではないかと推察している。 その後、2代藩主・光友の時代に、木村奥之助が「忍びの家伝あり」として召し抱えられた。それは「藩士名寄」によれば寛文12年(1672)のことだという。 藩は木村に甲賀で適当な人材を探させ、5名を甲賀在地のまま召し抱えた。それが甲賀五人と言われる尾張藩の忍びである。「達し書并願留」が書かれた文化11年当時の甲賀五人の名は、 望月弥作、渡辺善右衛門、木村源之進、渡辺新右衛門、神山与左衛門であった。
 甲賀者5名は毎年出府して、城下で鉄砲披露を行い、5両を貰って帰郷していた。当初正月に全員で出府していたが、3代藩主・綱誠の頃には5,6月に3名で出府し大筒・十匁筒を披露するようになり、 享保3年(1718)からは1人ずつの出府になったという。
 一方で探索業務も務めた。例として、享保8年(1723)大和郡山藩の本多喜十郎が断絶改易となった際に、郡山城へ籠城するという噂が流れた。 その真相を確かめるべく、甲賀五人が探索、報告したという。幕末になると、長州征伐など軍事動員されることもあったようである(渡辺家文書「本藩御触書写」)。

 尾張藩には多数の忍術書が残っている。そのすべてが甲賀市によって『渡辺俊経家文書―尾張藩甲賀者関係史料―』『甲賀者忍術伝書―尾張藩甲賀者関係史料Ⅱ―』の2冊に翻刻掲載されており、 活字で(物によってはカラー写真でも)読むことができる。尾張藩の忍術書は、由来の仕方から、尾張藩の軍学者・近松彦之進茂矩によって著されたものと、甲賀五人の家に伝わるものとに大別できる。
 近松は木村奥之助(初代)に忍術を習って、その秘伝をまとめた。リアルな忍者と言える木村から伝え受けた内容を、研究者である近松がまとめただけあって、内容はかなり充実している。また出色の忍術書「甲賀忍之伝未来記」では、 江戸時代になって全国の甲賀者のネットワークが失われていくことを嘆く木村の言が載せられており、当時の忍びたちの課題意識がわかる。これらは基本的に名古屋の蓬左文庫に納められているが、「甲賀忍之伝未来記」は蓬左文庫にはなく、東京の無窮神習文庫や、福井の伴家忍之伝研修所(川上仁一氏)に写本が伝わっている。
 もう一方の甲賀五人の家に伝えられた忍術書では、甲賀の渡辺家文書がよく知られている(現在は甲賀市に寄託)。甲賀五人の家に、どういった忍術書が伝授されていたのか、 同家文書から知ることができ、大変貴重である。幸い前掲の『渡辺俊経家文書』『甲賀者忍術伝書』で、その多くを読むことができるので、是非とも参照されたい。

 尾張藩の忍びについては、平成5年(1993)頃に名古屋で「達し書并願留」が偶然発見されたのを皮切りに、長い年月を経て研究が深まってきた。しかしまだ不十分な点も少なくない。 甲賀五人のほかにも、忍び働きを期待されて召し抱えられた甲賀者がいたが、その全容は分かっていない。「昔咄」によれば、上野小左衛門という忍術を心得た者がいて、 その弟が2代目光友の時代に手紙を忍んで届けて返事を貰って来いという任務を与えられ、無事に遂行したという。また、木村奥之助久康の弟・小五右衛門久種は家伝の忍びを主張したり、 忍器と思われる「浮沓」に乗るのを藩主に披露するなどして、18石3人扶持で「五十人組」として召し抱えられた(のちに20石2人扶持で「五十人組小頭」)。あるとき高野山中で騒動があり(年不詳)、 牢人なども集まって蜂起するという噂があった。そのため久種は密命を帯びて高野山の様子を見に行き、二日で絵図まで作成して報告したという。
 ほかに陪臣の事例もある。尾張徳川家家臣の小笠原監物に200石で「忍出」として召し抱えられていた服部理左衛門という甲賀者がいた。これは服部勲氏によって指摘されており (典拠は「清洲分限帳」。「藩士名寄」には服部理右衛門がいて同一人物と思われるが不明)、他に単独で早くから仕えていた甲賀者がいたと考えられている。 服部氏によれば、他にも甲賀出身者として、高岡、伴、山中、佐治、矢嶋、瀧の名前を見出だすことができるという。
参考文献 鬼頭勝之「史料にみる尾張藩における甲賀忍びの者の一断面」(郷土文化167、1993)
鬼頭勝之「尾張藩における忍びの者について」(地方史研究263、1996)
鬼頭勝之「尾張藩と忍びの者」(歴史読本777、2004)
服部勲「はじめに」(地域の歴史(甲南地域史研究会)、2006)
服部勲「「寺庄高等小学校文書」による甲賀忍び望月氏の活動について」(地域の歴史(甲南地域史研究会)、2006)
服部勲「磯尾山伏「木村奥之助」が勤めた尾張藩における富士信仰と修験」(地域の歴史(甲南地域史研究会)、2006)
服部勲「尾張藩に仕えた甲南の人々」(地域の歴史Ⅲ(甲南地域史研究会)、2010、執筆は1998)
服部勲「尾張藩における甲賀忍びの者にみられる甲賀者の特質について」(地域の歴史Ⅲ(甲南地域史研究会)、2010、執筆は1999)
服部勲「磯尾の山伏と木村奥之助と「甲賀五人」」(地域の歴史Ⅲ(甲南地域史研究会)、2010、執筆は2003)
甲賀市『渡辺俊経家文書―尾張藩甲賀者関係史料―』(2017)
甲賀市『甲賀者忍術伝書―尾張藩甲賀者関係史料Ⅱ―』(2018)

 

【松本藩】松平(戸田)家(1672年~1869年)

藩の変遷 美濃加納藩(1639年~1711年)→ 山城淀藩(1711年~1717年)→ 志摩鳥羽藩(1717年~1725年)→ 松本藩(1725年~1871年)
藩主 松平康長→庸直→光重→光永→光煕→光慈→光雄→光徳→光和→光悌→光行→光年→光庸→光則
名称 (芥川家) 系統 甲賀
期間 1672年~1869年(版籍奉還) 居住地 現在の松本市城東2丁目
人数 1人 家屋敷の広さ 約300坪
俸給 19石3人扶持→100石 家格
職務 他国偵察
関連文書 松本城芥川家文書(松本城蔵)
解説  戸田松平家には、芥川家1家が忍術を以て召し抱えられ、組織的な忍者はいなかった。
 芥川家が召し抱えられたのは、寛文12年(1672)。当時美濃加納藩主だった戸田松平家4代・松平光永に、忍術を申し立てて18石3人扶持で召し抱えられた。1世代で家禄100石まで加増となった。江戸後期、家名取り潰しの危機があったが、すぐに家名再興し明治まで続いた。 「戸田(松平)家には四術ある」と言われ、槍術の菅沼氏、砲術の黒田氏、医術の松原氏、忍術の芥川氏と言われ、藩内でも有名人だったようである。
 芥川家は、祖先の左京亮利保(または利治、ここでは芥川家初代とする)が佐々木六角氏のもと鈎の陣で活躍したと伝えられる、 典型的な甲賀武士の家系である。2代・忠右衛門利は六角氏家臣として野洲河原の戦いに参加し敗戦。3代・吉六正見を経て、4代・忠八郎利次は、 徳川方として大坂の陣に参加。5代・七郎兵衛利辰は松平信綱のもと、島原の乱に従軍した。芥川家は、いわゆる「甲賀二十一家」「甲賀古士」ど真ん中の家系と言って良いだろう。 島原の乱に従軍した5代利辰の弟・甚五兵衛利重は分家を立てる。しかし子に恵まれなかったのか、近江草津の平井家から養子を取った。それが松本藩初代の芥川義道となる。
 芥川家で最も有名なのは、松本藩4代・芥川九郎左衛門義矩(享保17年~文化7年)だろう。触れることなく近くの囲炉裏に火を付けたとか、祝宴の座興ですべての女中の下着(?)を気付かれずに脱がしたとか、 あやしい伝説が残されている。その一方で、藩校である崇教館で儒学の講義を持つなど、学問も究めていた。義矩を顕彰する碑が、今も松本市県(あがた)1丁目に残っている。
 芥川家に関する記録を数多く書き残したのが、最後の松本藩8代・芥川九郎左衛門義成である。実子ではなく、嘉永5年芥川家に入門し、同年養子入りした(「入門」というのは、忍術道場があったのだろうか)。 絵画にも優れ、義矩の作品は今も芥川家に残されている。在職中に明治維新を迎え、芥川九郎と名を改めた。
参考文献 『甲賀忍者芥川氏の足跡』(松本城芥川家文書)

 

【紀州藩】徳川家

藩の変遷 紀州藩(紀伊+南伊勢)(1619年~1871年)
藩主 徳川頼宣→光貞→綱教→頼職→吉宗→宗直→宗将→重倫→治貞→治宝→斉順→斉彊→慶福→茂承
名称 薬込役→伊賀七組または伊賀 系統 伊賀?
期間 不詳 居住地 雑賀町(現在の和歌山市雑賀町)
人数 約60名 家屋敷の広さ -
俸給 (本役)9石2人扶持 家格 -
職務 城の警固、奥女中の御使・代参、遠国(隠密)御用
関連文書 なし
解説   「薬込役」(または「御薬込」)という役職名は、鉄砲に火薬を込めることに由来する。鉄砲隊を想定していたと思われる。寛政5年(1793)5月に改称し「伊賀」あるいは「伊賀七組」(頭が7人いることに由来)となった。
 俸給は、組頭7人が10石2人扶持、本役61人が9石2人扶持、小供役14人が5石2人扶持であった。その人数の合計は82人にのぼる。1つの藩が抱える忍び役としては最大規模である。
 職務は『南紀徳川史』によると、御広敷御用人の使役に服し、総じて御供をなし、諸警固向を勤めた。また女中の御使・代参を「御広敷御錠口番」とともに行った。 ほかに御内命隠密の探偵をなし、殿様直々の密旨を受け、遠国他国へ密行することもあったという。小供役というのは助役見習であるという。服装は常に、丸に十の小紋の役羽織を着た。
 『南紀徳川史』には「公儀御庭番之職に類するもの」と記載され、実際に8代将軍吉宗は、「薬込役」の一部を江戸へ連れて行き、彼らが後に幕府の御庭番となった。 また同書には「恐らく甲賀忍ひ之者に起因したるならん」と書かれるが、これは明治末期の編者の憶測であって特に意味はないだろう(名称から考えればむしろ伊賀の者と考えられるが、それも確証はない)。
 紀州藩に関係する忍術書として、『正忍記』が挙げられる。同書は、藩の軍学者で軍学の名取流(新楠流)の創始である名取三十郎正澄によって著された。 無批判に「『正忍記』は紀州の忍者が用いた忍術書である」とされることもあるが、実際には「薬込役」と『正忍記』の関係は明らかではない。ここでは慎重に『正忍記』を関連文書として掲げることは控えたい。
参考文献 『南紀徳川史』(1901年成立)

 

【尼崎藩】青山家

藩の変遷 遠江掛川藩(1633年~1635年)→ 摂津尼崎藩(1635年~1711年)→ 信濃飯山藩(1711年~1717年)→ 丹後宮津藩(1717年~1758年)→ 美濃郡上藩(1758年~1871年)
藩主 青山幸成→幸利→幸督→幸秀→幸道→幸完→幸孝→幸寛→幸礼→幸哉→幸宜
名称 忍目付(他役と兼任) 系統 独自
期間 不詳 居住地 -
人数 不詳 家屋敷の広さ -
俸給 10石5人扶持? 家格 -
職務 探索業務
関連文書 なし(不詳)
解説  尼崎市立地域研究資料館による調査が詳しい。忍目付は、歩行目付の者が必要に応じて兼任したようである。藩主・青山幸利の言行録である「青大録」 (享保17年成立、『尼崎市史5巻』に所収)に、島長右衛門という歩行目付の者が、藩主から直々に命を受け、必要経費を受け取り、忍び御用に向かった話が紹介されている。

一、御在城之節摂州之内又ハ近国ヘ忍目付(御歩行目付之者勤也、御供目付ニてハ無之)被指遣之時分、御居間之御縁へ被召出 幸利様御直に御用之品被 仰含、近国へハ毎度被遣之急なる事御座候節ハ御縁先へ被 召呼其品被 仰付之、路用金潤沢ニ奉書紙ニ御包ミ御手自御直々被下置、頂戴之仕、直々御庭より何方へも罷越候よし忍ひの目付相勤候御歩行目付島長右衛門(当時七郎衛門父也) 及老年ニ度々忍ひ相勤事共物語ありしとなり(『尼崎市史5巻』221頁より)

(以下、参考文献に掲げたレファレンス協同データベースより引用)
当該個所の現代語訳(抄):尼崎藩主の青山幸利公が尼崎城在城のとき、忍目付を摂津国または近国へ派遣していた。 忍目付は歩行目付役の者が勤め、供目付役の者は勤めなかった。忍目付派遣の際は藩主の居間の縁に召し出され、藩主自らが命令を言い含めた。 尼崎在城時は毎回近国に派遣し、さらに急な事態があったときは縁先に呼び出して命令が伝えられ、必要経費を潤沢に奉書紙に包んで直々に下げ渡され、 これを頂戴した。その場合、どこへ行くにもその御庭から直接出向いたと、かつて忍びの目付を勤めた歩行目付の島長右衛門(当時七郎衛門の父であった)が、年老いてからたびたび話したという。。 (「歩行目付」は徒士など軽輩の武士や足軽の戦果・勤務を監察する役職、「供目付」は参勤交代をはじめ藩主の外出時の行列を管理・監督する役職)
(引用ここまで)

 なお島長右衛門は、歩行目付を務めていたことが、『御家中面々家禄』(明治20年成立、『郡上八幡町史』史料編2所収)より確認することができる。 また弘化2年(1845)の「江戸分限帳抜書」には、「金沢慎平」は「大嶋長右衛門次席」と書かれ、以下のように隠密御用を果たしたことが記されている。
  一、天保十二丑十二月 御近習隠密兼帯被仰付
  一、同十三寅、三石弐人扶持御加増
  一、同十四卯、隠密方勤中銀弐枚ツヽ被下
  一、弘化三午四月、御近習、隠密共願通御免

 青山家の忍目付について、実は尼崎藩時代以外で見い出すことができない。尼崎藩時代にしかいなかったのか、それとも別の藩の時代にもいたのか、判然としない。今後の調査研究がまたれる。
参考文献 尼崎市立地域研究資料館「尼崎在住の漫画家・尼子騒兵衛氏によるテレビアニメ「忍たま乱太郎」には、尼崎の地名にちなんだ忍者たちが多く登場しているが、実際に江戸時代の尼崎には忍者がいたのか?」(レファレンス協同データベース)

 

【鳥取藩】池田忠継家(1600年~1869年)

藩の変遷 岡山藩(1603年~1632年)/淡路洲本藩(1610年~1632年)→ 鳥取藩(因幡+伯耆)(1632年~1871年)
藩主 池田忠継→忠雄→光仲→綱清→吉泰→宗泰→重寛→治道→斉邦→斉稷→斉訓→慶行→慶栄→慶徳
名称 夜盗→忍(御忍) 系統 伊賀
期間 (1600年)~1869年 居住地 -
人数 16家程度(10~16人) 家屋敷の広さ -
俸給 40俵4人扶持~26俵3人扶持 家格 徒(卒)
職務 城下・領国の見廻り、藩主御供、不寝番、御内御用(探索業務)
関連文書 『御忍』(文化役職取調書)(鳥取県立博物館蔵)
解説  鳥取藩藩主をながきにわたって務めたのは、池田輝政の子の忠継の家である。1603年、忠継は小早川秀秋に代わって岡山藩主となった。一方その弟の忠雄は、1610年に淡路洲本藩主となる。1615年に岡山藩主忠継の早世により、兄の跡を継ぐかたちで忠雄が岡山藩主となる。その子の光仲は家督相続時に幼少だったため、当時鳥取藩主の池田光政(姫路藩主・利隆の子で、輝政の孫。つまり光仲の従兄)と交換するかたちで、鳥取藩に転封となった。以後、明治に至るまで光仲の子孫が藩主を務めることになる。
 鳥取藩池田家には、伊賀出身の忍びが仕えた。その職務や各家の経歴については、凛「鳥取藩御忍の基礎的研究」が詳しく報告している。以降、『鳥取藩史』および同論文が紹介する史料をもとに、若干の考察を加えながら記述する。
 凛による整理(論文の65頁の図など)をもとに読み解けば、当初の彼らの呼称は「夜盗」であり、2~3名の「夜盗頭」に、それぞれ3~6名の夜盗が預けられていた。寛文3年(1663)頃になると職制の改革が行われ、夜盗は「忍」と改称された。統率する者も一新され、4~6名の「目附(大横目)」に、それぞれ3人が組の者として所属することになった。ただし、名称の変化は徹底されておらず、藩内で浸透するまで少なくとも20年は要したようである(天和3年=1683年の家老日記でも「夜盗」という名称が見られる)。
 「忍」は徒格で、士分以下の身分だったが、特別に藩主へのお目見えが許されていた。これは後述する「御内御用」などを勤めるため、必要であったことも理由の一つであろう。
 その職務について、凛によれば、①城下の見廻り、②領国の見廻り、③藩主御供、④城での不寝番、⑤藩主御供の不寝番、⑥御内御用に分けることができるという。①城下の見廻り、④⑤城および藩主御供の不寝番の主目的は「火の用心」である。これが実質的な主たる職務だったようで、この過失(火事発生の見逃し)によって御役御免かつ国外追放となった者もいることが報告されている。
 ③藩主御供は、参勤交代の際の御供と「御入湯御供」の主に2種類がある。参勤交代の場合は、原則としてそのまま江戸に詰めた(これを「詰江戸」という)。「御入湯」とは、鳥取藩主が領内の温泉に行くことを指す。岩井温泉(鳥取県岩美町)、吉岡温泉(鳥取市)、勝見温泉(同、現在は廃湯)の3箇所が宛てられており(「第42回県史だより」参照)、藩主が温泉へ向かうのに御供したようだ。なお道中や入湯先で宿泊する際には、⑤不寝番を務めた。温泉というと牧歌的だが、先の御役御免と国外追放のコンボとなった処罰の出来事は、この入湯先で起こったことであった。
 ②領国の見廻りは「在廻り」と称され、春と秋の年2回、町目付と分担して実施したという。その目的は明らかではないが、町目付と行っていることから、村や町に異常や問題が無いか巡検していたのだろう。
 ⑥御内御用は、「本役御用」「御直御用」とも記述され、国内外の探索業務である。なお、「忍」から役替となった後にもかかわらず、特別に探索業務を行っている者がいるが、その業務は「御内御用」とは言わずに「探索御用」と言った。このことから、厳密には「忍」が勤める探索業務に限定して「御内御用」という名称を使うようである。また別名の「本役御用」という名称からは、この探索業務こそが、鳥取藩「忍」の本来の主任務であると分かる。
 「忍」を務めたのは新、伊賀、吉岡、国府、安場の姓を持つ16家であるが、「夜盗」時代には奥、梯、城などの姓も見られる。このうち最も古くから池田家に仕える新家は、服部平内左衛門の末裔を名乗る、伊賀の服部家だった。織田信雄の協力者である仁木友梅の追放に関わり、第二次天正伊賀の乱で一族が滅亡の危機に及ぶなか、幼少だった先祖が逃げ、成長して姫路藩主・池田輝政に仕えた。その先祖の子も池田家に召し出され、忠雄の淡路洲本藩入封に従い、さらにその孫は岡山→鳥取への転封に従うことで、以後仕え続けた。また、伊賀という珍しい姓の家があるが、実際は新の分家で、自らの出自にちなんで改姓したという。吉岡、国府、安場は、いずれも江戸期になってから召し抱えられたようである。彼らは、昇格や幕末の軍制改革で「忍」の職を離れたり(「家業御放」)しながらも、明治まで仕えていたことが分かる。
参考文献 凛「鳥取藩御忍の基礎的研究」(2024)

 

 


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