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西念寺

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■甲賀

甲賀流忍術屋敷

慈眼寺

慈眼寺(甲賀市甲南町野田)

 慈眼寺(じげんじ、慈眼禅寺)は甲南駅から1kmほどの所にある、臨済宗永源寺派のお寺である。


 望月嘉左衛門という江戸幕府の鉄砲甲賀百人組与力によって、慶安3年(1650)に建立された。甲賀百人組は、関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城の戦いでの遺族を中心に成立した鉄砲組である。寺のパンフレットによると、嘉左衛門の父・津之助は慶長3年(1600)の伏見城の戦いで功績があって甲賀組の与力となった。その際に津之助は、この野田に200石余りの所領を賜ったという。その後、嫡男・嘉左衛門は父の跡を継ぎ、甲賀組与力となった。幕府が開かれた最初の頃、甲賀組は郷土甲賀に在住したままだったが、寛永20年(1643)、ついに江戸・青山へと移住になる。移住した2年後の正保2年(1645)、嘉左衛門は野田にある自身の所領に、母の名義で観音堂の建立を発願した。もと法蓮寺という天台宗の小さな寺があった地に、村人総出で本堂や庫裏を建てて、これが5年後の慶安3年に完成した。甲賀で修行をしたこともあるという永源寺の僧侶を住職として迎え、臨済宗永源寺派の寺院となったのが今の慈眼寺である。


 甲賀組はまだ山岡道阿弥に属した100人の軍団であった時に、道阿弥に下賜された9千石のうち4千石を所領とした。望月三之助が野田に200石を賜ったのはこのときであろう。甲賀は地元とは言え江戸からは離れていて色々不便があったからだろうか、この所領は宝暦13年(1763)に現米80石支給と引き換えに、望月氏の領地ではなくなった。


 時代は移って、幕末ちかい嘉永2年(1849)。伏見城の戦いで亡くなった先祖の250回忌を地元甲賀にて行うべく、甲賀組の代表者たちが先祖ゆかりの寺院に墓参した。当時の甲賀組は甲賀出身の与力10人(その他の与力も合わせると20人いる)にそれぞれ同心が10人ずつ配属され、与力1人と同心10人で1組を成していた。慈眼寺には望月嘉左衛門組と、縁者と思われる望月藤左衛門組から代表者が訪れた。嘉左衛門組は同心10名の先祖の名を刻んだ墓碑を、藤左衛門組は同心10名の先祖の名を記した位牌をそれぞれ納めている。墓碑は墓地の奥にあったが、2017年慈眼寺の門近くに移された。位牌は残念ながら非公開であるが、写真豊富で墓碑と位牌の翻刻まで掲載したパンフレットが作られているので、訪れた際には是非手に入れたい。





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