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甲賀流忍術屋敷

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甲賀流忍術屋敷(望月本実家旧宅)(甲賀市竜法師)


甲賀流忍術屋敷の概要

 甲賀流忍術屋敷は、滋賀県甲賀市甲南町に現存する、からくりを有する古民家である。現在は甲賀市でも有数の忍者ゆかりの観光施設となっている。もとは甲賀武士の子孫で山伏兼売薬業を勤めた望月本実家の旧宅で、建造は江戸の元禄年間(1688-1703)とされ、築300年を超えることになる。この屋敷に住んだ望月家は、代々望月本実を名乗り、また廻国の山伏として望月本実坊と称していた。江戸前~中期の望月家は「万金丹」「人参活血勢竜湯」といった薬を開発。祈祷や配札のかたわら、製薬・売薬を生業にしていたという。甲賀にはこうした家が多く、こうした製薬業は明治維新後も継承され、現在においても製薬会社の多い地域である。望月家は明治34年に早くも株式会社となり「近江製剤株式会社」が設立された。忍術屋敷はその本社社屋でもある。観光施設としての忍術屋敷は、「忍者テーマパーク紹介」をご覧頂きたい。

屋敷に施されたからくり

 公式サイトで紹介されているからくりは、①どんでん返し、②落とし穴、③からくり窓、④天井の低い中二階と格子窓 である。②落とし穴は深さ3mもある井戸になっており、居宅内にこうした仕掛けがあるのは非常に珍しい(家伝では近隣の親戚宅の井戸へと繋がる横穴があると言われていたが、実際には存在しないらしい)。①どんでん返しは、望月本定『甲賀屋敷と望月家一族』(1959年)で言及されておらず、建築当時から存在するものなのかどうか不明である。
 

甲賀市内に残るからくり屋敷

 余談だが、甲賀市内には第二、第三と言われるからくり屋敷が存在する。甲南町磯尾にある東雲舎(とううんしゃ)こと小川家別宅は、第二の忍術屋敷と呼ばれている。居室に面する襖を開けていくと、そのうちの1つに、押入れではなく隠し階段が現れる。この階段を昇ることによってのみ、屋根裏の倉庫に上がることができる。第三の忍術屋敷は、望月本実家とは異なる望月家の旧宅である。甲南町柑子(こうじ)にあった茅葺きの屋敷で、隠し階段や中二階が存在した。現在は甲賀の里忍術村に移築、公開されている。

望月家旧宅は忍者屋敷なのか

 望月家旧宅が忍術屋敷として認知されたのは昭和30年頃のこと。地元の郷土史家によって、忍術屋敷と評され、町内を代表する観光施設となった。現代では、からくりのある屋敷を「忍者屋敷」と呼ぶことは多い。しかしながら、からくり屋敷と「忍者」との関連性については、素直に認めることは出来ない。現存するからくり屋敷は、望月家旧宅をはじめ江戸中期以後に建築されたもので、その当時に地域内で戦国時代のような紛争が起こることは無かった。したがって、敵の襲来に備えるべく自宅にからくりを施す意義を見出すのは難しい。我々のイメージする「屋敷にからくりを施して敵にそなえる忍者」は実際には存在しなかったと考えられる。ではなぜ、からくりが施されているのか。望月家も東雲舎の小川家も山伏の家であったことから、製薬との関係は考えられるかもしれない。両者とも特徴として、中二階の存在と、その中二階への行き方が隠されている点が挙げられる。重要な商売道具である製造途中や完成した薬を置く場所として母屋の中二階を使用し、鍵をかけるのに近い意味で、その入口を隠したのではないだろうか。あくまで製薬の作業場を兼ねた造りが、からくり屋敷なのだと思われる。

 それでは、望月家旧宅は「忍者屋敷」では無いのかと言うと、そういうわけでもない。そもそも望月家は、甲賀五十三家を名乗る甲賀古士の1家で、家伝の忍術書『忍術応義伝』も伝えている。江戸時代に忍びとして活動した実績は見られないものの、望月家は忍者の家系と言っても差し支えないだろう。望月家旧宅は忍者、あるいは忍者の末裔の居宅であったと言うことには間違いないのである。



参考文献
福田晃『甲賀忍者軍団と真田幸村の原像』(三弥井書店、2016)
望月本定『甲賀屋敷と望月家一族』(1959)
 


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